あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書「善の研究」が生まれた「驚きの事情」
---------- 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。 ---------- 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」
伝説の名著「善の研究」
西田幾多郎が一九一一年に出版した『善の研究』のなかでまず問題にしたのは「実在」、つまり真の存在、真の意味で「ある」と言えるものは何かということであった。西田がそれを問題にしたのは、西洋の哲学においてその問いに対して十分な答が出されていないと考えられたからである。『善の研究』には、西洋の哲学との対決という意味が込められていた。西田がなぜそれを問題にし、どう答えたのか、そしてその問いは戦後、どのような形で問題にされたのか。本講ではその点を見ていくことにしたい。 『善の研究』は西田の存命中もくり返し版を重ねたが、戦後も、とくに一九五〇年に岩波文庫版が出て以降、さまざまな人に読まれつづけている。多くの研究書も出され、英語やフランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など、多くの言語にも翻訳されている。 なぜ『善の研究』はこのように長く読み継がれ、人々に刺激を与えつづけてきたのであろうか。いくつかの答を挙げることができるであろうが、まず何より、そこにまさに自立した思索の営みがあったからだと言えるであろう。 西田はこの書において、西洋の哲学に正面から向き合い、その議論のなかに身を投じ、十分な解決が与えられていない問題をめぐって、どこまでも思索を深めていった。『善の研究』で問題にされている「実在とは何か」、「善とは何か」、「宗教とは何か」といった問題は、そのような意図に基づいて論じられたものであった。