「文春」の元編集長が40年のキャリアを振り返って選んだ「強烈に記憶に残る」仕事4選
権力の監視はメディアの使命なので「御用記者」に成り下がってはいけない。しかし、政治家にただ厳しい言葉を重ねても、それは真の「批判の剣」ではない。そんなジレンマを抱えながら、安倍晋三、菅義偉、梶山静六、細川護熙をはじめとする大物政治家たちから直接「政治」を学び、彼らの本質と向き合った「文春」の元編集長がいた。 漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 数々のスクープをものにした著者がキャリアを赤裸々に語りつくした『文藝春秋と政権構想』(鈴木洋嗣著)より抜粋して、政権幹部と語り合った「密室」の内側をお届けしよう。 「文藝春秋と政権構想」連載第3回 『「竹下登が顔面蒼白...」週刊文春元編集長が目撃した、日本政界で行われる生々しい「権力争い」の実態』より続く
週刊誌の「やり方」
「週刊文春」編集部では、新聞、通信社、テレビ局とは異なり、自分から名乗りを挙げれば「政治担当」「政治記者」になれる。新聞やテレビ局のように「政治部」があるわけではなく、言ってみれば「ひとり政治部」のようなものだ。 もちろん、上司や編集部がそれと認めてくれなければ、政治モノのネタは取材させてくれないのだが、そもそも自ら手を挙げなければ、そうした永田町の記事を担当させてくれない。 わたしは、学生時代から選挙や政治に興味があり、この日本という国のシステムに関心があった。この日は、政治家を間近で見るというのも初体験で、無茶苦茶に寒かったが、なんだか嬉しかったのを覚えている。 当時、永田町において週刊誌記者の地位は低く、政治家にはまったくと言っていいほど相手にされない。国会議員に面会のアポを取るのも一苦労であった。与党・自民党であればなおさらで、およそ派閥幹部といわれる人は会ってもくれない。我々下っ端記者は先輩にいわれて「記者の記者」になるしかないのだ。
何もないところで「一差し舞って見せる」
つまり、各メディアの「(仕事の)出来る記者」にお教えを乞うてネタをもらってくるわけである。恥ずかしいといえば恥ずかしい。特に公平公正、中立を旨とする公共放送・NHKの記者はせっかくの特ダネも立場上、書けないことが多い。「ウチでは出来ないから」と取材メモを丸ごとポンともらったことも一度や二度ではない。余談になるが、週刊誌記者が訪ねてこないような記者さんは周りから評価されていないことを自覚すべきだろう。 私の40年のキャリアを説明しておくと、ざっくりいえば、週刊誌が20年弱、月刊「文藝春秋」(文春社内では「本誌」と呼ぶ)とは15年ほどの関わりがあった。文春では3年から5年で異動となるので、週刊誌と本誌を行ったり来たりしていた。その中で印象に残る仕事が四つある。 いちばんの強烈な記憶は、2012年、安倍晋三第二次政権が打ち出す「アベノミクス」の基本的な設計に関わり、月刊「文藝春秋」に安倍の政権構想を掲載したことだ。第二には、安倍長期政権に続く、2020年の菅義偉政権誕生の折り、インタビューをしてまとめた「我が政権構想」である。 さらに三番目としては、古い話で恐縮だが、新党ブームの草分けの記事だ。1992年、田中派支配に「待った」をかけた細川護熙「自由社会連合結党宣言(後の日本新党)」の立ち上げを仕掛けた。そして最後は、バブル崩壊後、あまたの銀行、証券会社が破綻した金融危機に際して、1997年に発表した梶山静六「わが日本経済再生のシナリオ」であった――。 これらの記事に共通しているのは、いずれもリークによって出来た記事ではなかったことである。まさに何もないところで一差し舞ってみせるようなミッションだった。前述した「つくるスクープ」と言えるかもしれない。長く編集者をやっていても、そうそう出会うことのない類の仕事であった。 『政治記者は経済政策に無関心!?...週刊文春元編集長が気付いた、大手メディア“だからこそ”の「構造的弱点」とは』へ続く
鈴木 洋嗣