なぜ連続救援記録を作れたのか? 首脳陣へのアピールでサイドに転向したドラフト外左腕・清川栄治【逆転プロ野球人生】
誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。 【選手データ】清川栄治 プロフィール・通算成績
サイドスローを始めたきっかけ
なぜオレの力を認めてくれないのか――。 まるで組織に不満を持つ若手サラリーマンのような心境で、そのドラフト外入団の若手投手は、首脳陣たちの目が自分に向くように腕を下げ、サイドスローで投げ始めた。不貞腐れているヒマはない。今のチームで、自分が入り込める余地があるのは中継ぎしかないだろう。そこで使ってみたいと思わせる投手になってやる。こうして中継ぎのスペシャリスト清川栄治が誕生するのである。 京都商の大先輩・沢村栄治にあやかり、「栄治」と名付けられた清川は、大商大で通算24勝を記録した先発左腕だった。「彼のいい面は、球威よりもマウンド度胸のよさでしょう」と大学関係者が絶賛したように、おとなしそうな顔をして常に冷静で打者の様子を観察しながら、ズバッとど真ん中に投げ込んでみせる。ちなみに京都商の合格発表の日、貼り出された名前に自分がなかったが、「あの西村のあとの“清水”って“水”と“川”の間違いじゃないか」と学校に問い合わせたら、本当に「清川」と間違えていて逆転合格を勝ち取ったという。観察眼と度胸の良さ、のちにそれがリリーバー清川の生命線となる。 1983年のドラフト外で広島入りするが、80年代のカープは球界屈指の投手王国だった。身長176cmのサウスポーは、先輩左腕の大野豊や川口和久らのレベルの高さに驚くと同時に、ドラフト外入団のこれといった武器がない自分は、首脳陣から見向きもされていないことに気づいてしまう。プロ野球選手のチャンスの数は平等ではないという残酷な現実に直面するのだ。清川は当時のやるせない心境をのちに週べのインタビューでこう振り返っている。 「その時、僕が入り込める隙間なんて、中継ぎしかなかった。このまま知らん顔されてやっていくのは寂しかったから、何とか中継ぎで生きていけるよう。こいつだったら中継ぎで使ってみようと首脳陣に思わせるようにしたい。それがサイドスローを始めたきっかけですよ」(週刊ベースボール99年8月30日号)