【甲子園100年物語(7)】外野フェンスは直線形 ベーブ・ルースもあきれたデカさ
8月1日に甲子園球場は開場100年を迎える。「甲子園100年物語」と題した連載で、“聖地”の歴史や名物の秘話などを紹介する。(井之川昇平) 甲子園球場の外周の左翼付近に、球場建設70年の1994年に建てられた記念碑がある。描かれているのは、球場建設時の姿。この石碑の写真を見ると、現在と球場の形状が異なることに気付く。左翼と右翼を結ぶ外野フェンスがストレート。今のように両翼から左中間、右中間に向かって膨らむような形ではない。 阪神電鉄・三崎省三が留学した米国で野球人気を目の当たりにし、その体験が甲子園建設の原動力になったのだが、米国でもう一つのスポーツの人気に触れた。アメリカンフットボールだ。甲子園は、野球とアメフトの兼用を目指して建てられた。外野フェンスが直線なのは、アメフトを開催できるようにするためだった。また、「甲子園球場」ではなく「甲子園大運動場」と命名されたのも、アメフトなど他競技との兼用を見据えたためだった。 元々、広大なグラウンドにしたうえ、外野フェンスを直線形にしたため、本塁から両翼までの距離が110メートルもあった。中堅は最も浅い部分でも本塁から約127メートルだったというから、とてつもなく大きい。 その広さを話題にする狙いもあって、オーバーフェンスかフェンス直撃の打球には賞金100円を贈り、打球を打ち当てた場所に打者の名前を記すことになった。その第1号は、黒人リーグの混成チーム「ローヤル・ジャイアンツ」の4番・ディクソン。27年4月6日、大毎野球団との試合で中堅フェンスを直撃した。第2号は29年、カリフォルニア州立大のリクセンが慶大戦でマーク。31年には米大リーグ選抜のシンナースが早大戦で、シモンズが全慶応戦で記録した。だが、これらはいずれもフェンス直撃。甲子園オープンから12年間、オーバーフェンスの本塁打は1本もなかった。ボール、バットなど用具も今ほど優れていない時代。34年に日米野球で来日したベーブ・ルースが「Too Large」と言ったように、甲子園はでかすぎた。 36年に外野席を改造し、内野席と同じ高さまで引き上げた。この際、従来の外野フィールド部分までスタンドが拡張する形となり、左右両翼の距離も縮まった。外野フェンスも直線から丸みを帯びる形状に。グラウンドを大きなスタンドが包むような、すり鉢状の球場の形が整った。 ◆1934年の日米野球 全米選抜はベーブ・ルースや3冠王ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスら後に野球殿堂入りした名選手6人を中心に来日。中でも本塁打王を12回獲得したルースの知名度は別格だった。ルースは日米合同での紅白戦を含む18試合にフル出場。13本塁打を放ち日本の野球ファンを熱狂させたが、甲子園での2試合はノーアーチだった。全日本には17歳の沢村栄治がいた。
報知新聞社