【再掲】やり投金メダル・北口榛花 コーチ不在から単身チェコへ 逆境をチャンスに変え、つかみ取った世界への扉の鍵
◇パリ五輪・陸上競技(8月1日~11日/フランス・パリ)10日目 パリ五輪・陸上競技の10日目のイブニングセッションで行われた女子やり投で、北口榛花(JAL)が65m80をマークして金メダルを獲得した。今大会、陸上競技で初のメダルをもたらしたこの金メダルは、日本女子トラック&フィールド初の快挙。陸上競技の金メダルは2004年アテネ五輪(男子ハンマー投・室伏広治/女子マラソン・野口みずき)以来となる。昨年のブダペスト世界選手権を制しており、真の世界一となった。 やり投金の北口榛花「多くの人に理解されることではない…」信じ、貫いた姿勢・身体作り/パリ五輪 北口は2018年にチェコに渡り、ディヴィッド・セケラック・コーチに師事。今も1年の半分は欧州を拠点としている。昨年のブダペスト世界選手権優勝時に公開した北口がチェコ渡るまでのストーリーを再掲載する。 ============================= 2018年の秋、確か国体を終えた後のこと。別の選手の取材で日大を訪れた時に、練習していた北口とこんな話をしたのを覚えている。 「海外に行かないの?」 「行きたいんですけど……」 高校からやり投を始めインターハイ2連覇。高校記録も、U20日本記録も塗り替え、U18で世界一にも輝いた。そんな大器は、大学1年時にリオ五輪を目指して無理な投げをしたことで右肘を故障。その後、チーム内の指導体制が変わったことでやり投専門のコーチが不在となった。 これまで何度も北口の涙を見てきたが、18年の日本選手権は一番印象に残っている。1回目は50mオーバーを見せたものの納得がいかず、自らファウルラインを越えて記録を消した。残り2回で、4回目以降に進める上位8人に入れるはず。しかし、その後は50mを越えられずトップ8漏れ。12位だった。 取材エリアにもタオルで顔を覆うほど号泣。誰もが声をかけられず、記者自身も止めるかどうかためらった。「ちょっとだけいいですか?」。北口はしっかり立ち止まり、止まらない涙を拭いながら2、3問答えた。 「日本選手権の時は声をかけてごめん。でも、ああいった結果でも話さないといけない選手だと思っているから」。そう言うと、「大丈夫です。わかっています」と答えてくれた。なんと聡明で強いことかと思った。 後で聞くと、コーチ不在や記録・結果へのプレッシャーから食事も喉を通らず、体重も激減。身体が軽く動いていたから調子が良いと勘違いしていたが、パフォーマンスを発揮できる状態ではなかった。家族にも心配をかけまいと相談できていなかったが、日大の先輩たちが異変に気づいてくれた。 当時、どんなに苦しくても必ずグラウンドには足を運んだという。 「陸上で大学に来て、辞めたら何も残らない。同級生たちは受験勉強をして大学に進学して、教員になりたから教育学部、医師を目指して医学部、と目標を自分で決めていました。だから、結果が出なかったとしても絶対に辞めない、と心に決めていました。水泳、バドミントン、勉強、いろいろな選択肢の中でやり投を選んで、あの時、あれを選んでいればよかった……という後悔をしたくない」 少しずつ復調し、秋に日本インカレ、国体を連勝し、これから冬季練習、という時期だった。 「このままでも日本記録は出ると思うけど、僕は世界一を目指す選手だと思っている。だから、状況が許されるなら海外に行っちゃえばいいんじゃない?」 「私も行きたいんですけど、どこでもいいわけじゃないですし。高校時代からドイツやフィンランドにも行っていますが、合う・合わないもあるので……」 そうだよね、と相づちを打つと、 「もうすぐ、フィンランドで世界のやり投関係者が集まるカンファレンスがあるんで、そこに行くんです」と北口。「すごい、そんなのがあるんだ。そこで何かつながりができるといいね」。おおむね、そんな会話だった。 その『ワールド・ジャベリン・カンファレンス』で出会ったのが、現在も指導を受けるチェコ人コーチのディヴィッド・セケラック・コーチだった。 懇親会で、ポーランドとチェコのコーチが談笑しているところに「ちょっとおいで」と手招きされた。 「俺たち、君のこと知っているんだよ。世界ユースも見ていたし、U20世界選手権のときは泣いていたよね」 そう言うと、動画サイトを開いて、北口の投てきの『即席分析会』が始まった。「走るのが遅い」などと指摘され、練習環境を聞かれた北口は「今は大学生で先輩たちと一緒に練習していて、専門のコーチがいない」と説明。4人の表情が一変した。 「東京オリンピックもあるのにどうするの? メダル取りたいでしょ?」 「取りたい」 「何メートル投げたいの?」 「68mを投げたい」 「それならコーチが必要だ」 4人はどこを拠点にして、どんなトレーニングをしているか動画や写真で紹介を始めたという。北口のポテンシャルと愛くるしいキャラクターは、海外の専門家にとっても魅力だった。 「君は68mを投げられる。70mだって夢じゃない。でも、コーチが要る」。チャンスだと思った。「もし私がコーチを頼んだら合宿に行ってもいい?」。答えは全員「YES」だった。 高校時代からあこがれていたチェコは、男女の世界記録保持者(ヤン・ゼレズニー、バルボア・シュポターコヴァ)を生み出したやり投大国。帰国後、すぐにSNSでコーチたちと連絡を取った。最初は別のコーチに依頼したが、最終的に現場にもいたセケラック・コーチに決めた。 強化費はあるにしても、当時はまだ大学生で金銭面でも不安だったが、「僕はお金ではなく、気持ちを大切にしているから」とシェケラック・コーチは快諾。年が明けて19年2月から1ヵ月ほどチェコでトレーニング。ジュニアのナショナルコーチを務めているだけに、基礎から作り上げる必要があった当時の北口とマッチした。 帰国して迎えた19年5月に64m36の日本新、秋には66m00まで日本記録を伸ばした。その後の活躍は説明不要。数々の歴史と記録を塗り替えると、今年は67m04と4年ぶりに日本記録を更新。ブダペスト世界選手権はワールドリーダーとして迎えた。そして、23年8月25日、北口は世界の頂点に立った。 今も1年の半分近くは日本におらず、欧州を拠点に世界中を飛び回る。今では英語やチェコ語で海外メディアからのインタビューも応えている。「世界一」の夢を叶えた北口の幼い頃のもう一つの夢が「世界中を飛び回ること」。そのどちらも自ら選んだ道で一つずつ実現した北口は、次にどんな夢を見ているのだろうか。 <2023年8月26日に月陸Onlineで掲載したものを再掲>
向永拓史/月陸編集部