【日本史の新常識】「武士」のはじまりはどこにある?「農民の武装化」から生まれたって本当?
古代日本において、律令制のもとで支配層にいた貴族たちに台頭した「武士」は、どのように生まれ、どのように貴族にとって代わっていったのだろうか。 従来説:東国の僦馬の党など農民が武装化して生まれた 新説:旧支配層、貴族の末裔が武士となった ■武士の起源とは? 律令制のもとで支配者層であった貴族たちに対して、武士がどのようにして生まれ、貴族たちにとって代わったのかという点は、興味深いことだが、なかなか実態を明らかにすることは難しい。従来は律令制支配の崩壊が地方政治の混乱をもたらし、在地の荘園領主たちは、自衛の必要性から武装するにいたった。これが武士の誕生であるといわれてきた。 たしかに説得力に富むように思われる。たとえば、東国を基盤とした「僦馬(しゅうま)の党」という集団がみられる。彼らは、武装して税の運送にあたったといわれ、その一方で群盗行為もおこなっていたといわれる。こうした集団に対抗するために武装することは必要なことのように思われる。 しかし、近年では、そう簡単に武士の誕生をいうことはできないという説がとなえられている。武士としての条件である騎馬や弓術の習得、太刀や組み打ちの技術を得ることは一朝一夕にできるものではないというのである。むしろ、武士は本来、都を中心に存在していた武官が起源になっているのではなかろうかといわれるようになってきている。 たとえば、押領使(おうりょうし)や追捕使が例にあげられる。押領使は、9世紀後半ごろから諸国の盗賊たちを鎮圧するために起用された令外(りょうげ)の官である。はじめは臨時であったが、承平・天慶の乱ののち常置の官となった。下野押領使として平将門(たいらのまさかど)の乱を平定した藤原秀郷(ひでさと)が有名であるが、彼は本来、左大臣にまで登った藤原魚名(うおな)の子孫である。 追捕使は、10世紀以降、諸国の賊徒をとり締まるために置かれた令外の外であり承平・天慶の乱ののち常置となった。押領使や追捕使は当然のことながら武官であり彼らの子孫が武士になっていくというのである。 また、貴種が地方に土着して武士になっていく例もみられる。たとえば、桓武平氏は、桓武の子の葛原(かつらはら)親王の孫である高望王(たかもちおう)が臣籍降下して平の姓を受けたことに始まる。高望王は、上総介(かずさすけ)となり任地に土着して勢力を拡張していった。その子孫は、関東一円に広がり、千葉・上総・三浦・梶原・土肥・秩父・長尾・大庭の各氏は「坂東八平氏」と称された。このように桓武平氏は関東に基盤を作ったが、平忠常(ただつね)の乱を契機に清和源氏に勢力を奪われていった。 一方、清和源氏は、清和の孫の六孫王(経基)が臣籍降下して源の姓を賜ったことに始まり、武蔵介として平将門の乱を報告したり、藤原純友の乱を山陽道追捕使の小野好古(おのよしふる)とともに平定したりして、関東を中心に東北などに地盤を作った。彼らは軍事貴族とよばれ地方に土着して武士になっていったとされる。 監修・文/瀧音能之 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部