キリシタン大名・高山右近は強かった? 大阪・高槻城で頑丈な堀発見
キリシタン大名・高山右近は強かった? 大阪・高槻城で頑丈な堀発見
戦国時代のキリシタン大名高山右近の居城として知られる大阪府高槻市の高槻城址で3日、発掘調査を進めてきた高槻市教育委員会が現地説明会を開き、多くの歴史ファンらが詰めかけた。高山右近城主期の内堀が江戸期改修後の内堀よりも深く強固だったことが分かり、高山右近のすぐれた武将ぶりが改めて浮き彫りになった。 【拡大写真付き】「大坂夏の陣」の焼け跡が出土 発掘調査現場を一般公開
右近高槻城は深く強固な堀で鉄壁ガード
説明会が開かれたのは、高槻城二の丸跡北辺部。本丸側の二の丸と、外側の三の丸の間にあった北内堀の遺構などが出土した。 高槻城は戦国末期の1573年から85年までの12年間、高山右近が城主を務めた。大坂の陣直後の1617年、長期安定政権を目指す徳川幕府が大規模改修し、西日本統治のかなめのひとつとした。明治期の廃城に伴い、堀は埋められ大きく姿を変えた。 発掘調査で幕府改修期の堀の下から戦国時代の堀の遺構が見つかった。戦国時代の堀の方が深く、強固だったわけだ。戦国期の堀跡はふたつあり、元々あった細い溝を、右近城主期に拡張して頑丈な堀に作り直した可能性が高い。右近が織田信長と対立時、城を包囲されながら堀の守備力で織田軍の動きを鈍らせたとする史実の裏付けになりそうだ。 徳川幕府は改修に際し、右近時代の堀の配置などを否定することなく、むしろ継承しようとしたらしい。右近の城は信長や徳川に一目置かせた。築城に関する右近の理論や技術が卓越していたことを物語る。
武将・宗教家・茶人の多彩な顔を持つ高山右近
江戸期の遺構も、興味は尽きない。不明門(あかずのもん)と呼ばれる非常用ゲートにつながる木橋の橋脚が多数出土した。江戸期初期の絵図には描かれてないため、中期以降に架橋されたと推定される。 城の改修時に内堀周辺で利用した築城用土橋跡も見つかった。堀の底に俵土のうを左右に積み上げ、間に土を敷いて幅3・5メートルの仮設通路を確保し、石材などの資材搬入に役立てたと考えられる。 調査では、戦国期から近世近代にかけて高槻城が変遷していく過程を知る手がかりを得ることができた。城主を務めた高山右近の人間像にも興味が湧いてくる。調査スタッフのひとりは「高山右近は武将、宗教家、茶人など、多彩な顔を併せ持っていた。調査によって、有能な武将としての右近の人間像に光を当てることができた」と、発掘成果を強調した。
4歳男児を連れて訪れた40代夫婦は、近所に暮らして8年ほどという。「発掘現場は博物館の展示と迫力が違う。歴史のあるまちに住んでいることを誇りに思う」「歴史の教科書に載るような遺跡を間近に体験できるのは、とてもぜいたくな喜び」などと話し、親子3人で歴史散歩を楽しんでいた。