『ジョジョの奇妙な冒険』で主人公が危機でも「決して起こらない出来事」とは?
「このまま帰れるわけがない… 頼む彼女を許してやってくれ。彼女は純粋に幸せになりたかっただけだ… ぼくのために取材になれば良いと思ったのも…編集者として本心だったはずだ……」(岸辺露伴/『岸辺露伴は動かない』1巻、「富豪村」) 神々の使いである執事の少年は「ひとつ得るか?ひとつ失うか?」と露伴に詰め寄り、一切の「寛容」を示そうとしません。露伴は神の意思に反してでも富豪村から生還しよう、と決意します。 彼は、自分のスタンド能力『ヘブンズ・ドアー』を使って、神々の使いに強制的にマナー違反を犯させ、これによって女性編集者を「死の罰」から救います。 アメリカの民話研究者スティス・トンプソンは、「神は天上から見おろして正しい者には恩恵を与え、神意に反逆する者にはきびしい裁きをくだす」としており、同時に「全能者の道はしばしば見え難いが、そのなすところの真意はいつも完全な正義を示している」と述べています。 仮に富豪村の「山の神々」にもこの全能性を認めるならば、すでに富豪村に住んでいる11人の富豪は、規範やルールにのっとる美徳を持った「善なる人間」で、12人目の富豪になろうとした女性編集者はマナーすら守れない「つまらない人間」なのでしょうか。 露伴は神々の判断に強く反対します。彼女の行為は命を奪われないといけないほどのものだったのか、神々が人間に対して真に望んでいることは「心を伴わない形式的な信仰」なのか、と。神々の使いに対する挑戦的な行為を通じて、露伴は神々に問いかけました。 露伴と神々の使いとのやり取りには、形骸化するルールの滑稽さと、人間の願いや感情を聞き入れない神々の残酷さが表現されていたといえるでしょう。
● 『ジョジョの奇妙な冒険』に “都合のいい偶然”は起きない 「富豪村」における「山の神々」と露伴たちの行動は、伝承文学における「神から与えられる褒美」「神からの罰」、不条理な「運命」、「運・不運」のモティーフ(*)と関連がありそうです。トンプソンは、「運命」と「人生」について、このように解説しました。 (*)…編集部注:物語を構成する要素のうち、ストーリー(物語の内容)に影響を与える「記号的な意味」を持つものの総称 「人生において説明出来ないことがいかに多いか、価値のないものに過剰の報酬が与えられたり、人々が不当の苦労や災難に会うことがいかに多いかという面について昔話では運命の作用と説くのが普通である」(スティス・トンプソン、荒木博之・石原綏代訳『民間説話――世界の昔話とその分類』2013、135頁)。 我々人間は「運と不運」に理由を求めようとする性質があります。突然の死、残酷な事件、思いもよらない災害などに巻き込まれると、そこに「神の意思」を想像して、なんとか自分を納得させようとします。 あるいは、他人の過剰な幸運すらも「運命のいたずら」だと思おうとするのです。自分の願いや意思が「運命」に関与できないことを諦めるために、「神」の気まぐれを理由にしようとします。 しかし『岸辺露伴は動かない』の作者である荒木飛呂彦は、人間が難局を打開するための物語に、救済の手段として「神様」を登場させてはならないといいます。強い意志と人間の「勇気」が何よりも大切なのだと語りかけます。 「何かの困難に遭ったとき、それを解決し、道を切り拓いていくのは人間の自らの力によるのであって、そこで急に神様が来て助けてくれたり、魔法の剣が突然落ちてきて、拾って戦ったら勝ってしまった、というような都合のいい偶然は、『ジョジョ』ではけっして起こりません」(荒木飛呂彦『荒木飛呂彦の漫画術』、221頁)。 「富豪村」では、物語の中で明らかに「神」の存在が感じられました。そして、神話的、伝説的な要素をふんだんに織り込んだストーリーでありながら、「山の神々」は人間を救ってはくれませんでした。褒美を得るためには果たさねばならない決まりがあり、少しのミスで生命すら脅かされるのです。 登場人物たちは神がもたらす「苦難の運命」と戦うことを決意するのですが、「勇気」がもたらす心の変化こそが、荒木飛呂彦作品の面白さではないでしょうか。露伴は神々にすら負けません。人間の運命を切り拓くのは、いつも人間自身なのです。