被爆の事実を隠していた過去 大阪の飯田さん今では語り部に
何とも言えん光が襲ってきた 大阪の飯田さん広島での被爆体験語る THE PAGE大阪
「被爆したことを60年近くだまっていました」と語るのは、大阪市住吉区の飯田清和さん(80)。小学校3年生の時、爆心地から約3キロ地点で、あの恐ろしくさく裂する光をみたと同時に被爆した。そして、その後の惨状も目の当たりにしたが、語ることはできなかった。最愛の妻にさえ、被爆の事実は長きにわたり隠していた。そんな飯田さんだが、10年前から自身の体験を語るようになった。そのきっかけは、大阪で広島に原爆を投下する前に試験的に落とされたという「模擬原爆」の事実を伝えるグループの活動を見たことだった。
何とも言えん光が襲ってきた
1945年8月6日、飯田さんは広島市の舟入国民学校(現・広島市立舟入小学校)の3年生だった。当時は1、2年生が学校にいたがほかの学年は集団学童疎開のため学校におらず、飯田さんら10人ほどの3年生が下級生らにまじり運動場での朝礼に参加していた。 同日午前8時15分、列の前にいた友人が「なんか光るもんが落ちてくる」と話し、自分も見上げた瞬間...激しい光がさく裂、同時に熱風が襲ってきた。「前にいた子が光ってると言ったことは覚えているが、その後の記憶はほとんどないんです。何とも言えん光が襲ってきた」。これはあの、恐ろしい原子爆弾が落とされた瞬間だった。 学校は原爆ドーム(当時の広島県物産陳列館)から約3キロもない地点にあり、当時の木造校舎の屋根瓦などは吹き飛んだ。飯田さんは、その落ちたときの光は覚えているが、その直後の記憶はほとんどないという。「気がついたら校舎の土間にいたのを覚えているくらい。校舎は半壊して、屋根瓦などが朝礼中の児童の上に落ちているなど、恐ろしい光景だった。もちろん周囲は大混乱していたが、自分がどうして運動場から校舎に入ったなどの記憶はすべて吹っ飛んだのか、そこはなにも覚えていない」。今でも覚えているのは、あの一瞬の光とその後の街の惨状、そして食べ物もろくにとることができなかった辛い思い出だった。