【188年前からの伝言】天保の飢饉を経験し、「ゆめゆめ備えを怠るな」と記した警告碑 : 食料自給率の低い日本は常にリスクと隣り合わせ
阿部 治樹
豊かな日本は飢饉(ききん)や飢餓とは無縁と思い込んでいないだろうか。地球規模の気候変動や災害が頻発し、紛争や戦争で食料の輸出入に困難が生じる事態があちこちで起きており、食料自給率の低い日本は常にリスクにさらされている。「飢饉警告之碑」は、新たな広がりと重みをはらんで今も私たちに警告を発している。
「飢饉は必ずまた来る」と警告
埼玉県中西部、比企郡小川町勝呂のJR八高線竹沢駅から国道254号を南東方向に約350メートル行った道端に「飢饉警告之碑」がある。ストレートな名前だ。それだけ危機感が強かった証だろう。
1836(天保7)年の状況を伝えるため、地元の名主・吉田金右衛門明敬が1842年に建てたと伝わる。碑の脇の説明石板によると、碑文には「天保7年は夏の初めから秋まで休みなく雨が降り非常に低温のため五穀は実らず蔬菜(そさい=野菜のこと)の成長は悪く収穫は極端に減少した。物価は高騰し住民は飢餓に苦しんだ。こうした飢饉は30年から50年の間には必ず来るものであるから、平素から農事に励み、準備を決して怠ってはならない」と記されている。この碑を建てさせるほどの天保の飢饉とはどんなものだったのだろう。
全国で死者20万~30万人の天保の飢饉
日本が動乱の時代に突き進む引き金になったペリー提督の黒船来航より20年前の1833年。日本各地は大雨による洪水や冷害に見舞われ、東北や関東を中心に大凶作に陥った。米の値段が高騰し貧しい農民や都市住民を困窮に陥れた。幕府や諸藩は「救小屋」を設けたり「囲米(かこいまい=備蓄米)」を放出したりしたが追いつかず、各地で餓死者や行き倒れ、病死者が続出した。 京都に滞在していた画家で蘭学者の渡辺崋山は、食べる物を求めて救小屋に並ぶ人、ガリガリにやせ細ってムシロに寝かされる人、遺骸を入れた桶の前で経をあげる僧侶など、当時の様子を絵に残している。 1834と35年の夏は比較的天候に恵まれたものの、餓死と病気による働き手不足で生産が回復せず、36年に再び冷害に見舞われ事態はさらに悪化した。米価の暴騰は止まらず、苦難に耐えかねた農民や住民らは米価をつり上げる商人に対し打ちこわしをしたり救済を怠る領主らに一揆を起こしたりした。特に、甲斐(山梨県)や三河(愛知県東部)の一揆は大規模なものだったという。 さらに37年、毎日150~200人を超える餓死者が出ていた大坂では、大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎が、庶民を助けようとしない奉行所や商人に怒りを募らせ武装蜂起した。「大塩平八郎の乱」である。 窮民救済を建議したが却下され、蔵書を売るなどして得た資金で独自に救済活動をしていた大塩は、大坂町奉行が貴重なコメを新将軍に献上しようと江戸に送るに及んで蜂起を決意した。乱自体は1日で鎮圧されたが、幕府につながる役人だった武士の蜂起に幕府は衝撃を受け、後の天保の改革につながったという。 1839年まで続いた「天保の飢饉」による死者は20万~30万人に上ったとされている。