「血管が破裂すれば死に至る」大手術→“奇跡の生還”から間もなく…“銀幕スター”石原裕次郎はなぜ病院の屋上に姿を現した?
成功率3~5%という絶望的な数字
手術当日の5月7日には、実に、慶応病院前に500人の報道陣、40台以上のテレビカメラが集まり、日本中が「ボス」の手術成功を、かたずをのみ見守ったのである。 成功率3~5%という絶望的な数字の緊張感、切迫感は、兄の石原慎太郎の、なりふり構わない行動からも見て取れる。 知らせを聞いた慎太郎は、当時私用で滞在していた小笠原諸島・父島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京。これは公私混同として、世間から激しいバッシングを受けたのである。 当時の日刊スポーツ には「民間機を八方手を尽くして探したがなく、防衛庁に問い合わせたら、たまたま訓練飛行があったにすぎない。代議士は『とにかく死に目に会いたい』という気持ちでいっぱいのようでした」という、慎太郎の秘書のコメントが掲載されたという。 手術の翌日、多くの新聞が5月8日には「手術成功」「タフガイ勝った」と、大きく掲載。裕次郎の手術チームの一人には、のちにアジア人女性宇宙飛行士第一号となった向井千秋がいたのは有名な話である。 彼女は、裕次郎が麻酔から覚め、チューブを抜かれた第一声を聞いていた。 「ああ、先生、大海原をさまよっている感じがしてましたよ」 この言葉に、「ヨットマンらしくて、なんかロマンチックな人だなあと思った」と印象を語っている(「日本女性初の宇宙飛行士―向井千秋氏|一流に学ぶ」時事メディカル)。 ただ、この手術は、あくまで救命手術。心臓を出たところから大動脈が裂けていくこの病気、裕次郎のそれは、脚にまで及ぶものだったのである。当時の技術で根治手術は難しく、最も危険な部分だけを切り取り、あとは解離しっぱなしだった。
規格外の「お見舞い」
裕次郎の入院期間中は約4か月、129日に及んだ。そしてその間、病院には数多くの見舞客が訪れ、ファンからの応援の手紙や電話も、ひっきりなしに届いたという。 見舞客延べ1万3000人、手紙7500通、千羽鶴2180連――。病院の駐車場にとめられた石原プロのバスの車体には、ファンからの応援メッセージが油性ペンでぎっしりと書かれた。 余談ではあるが、石原裕次郎が手術を受けた後「ポカリスエットが飲みたい」と筆談で懇願し、兄の慎太郎が記者たちにそれを話したことで、その日からポカリスエットの売上が急増した、という逸話もある。 すべてが規格外。日本中の祈りがエネルギーと化し、裕次郎に集められ、彼もその力を借りるように回復していき、6月30日には、特別個室から一般病室に移った。 現代では考えられないことであるが、マスコミは入院中も彼を追いかけた。フジテレビのワイドショー「3時のあなた」は、屋上にて日光浴をする裕次郎にインタビューを敢行している。 世間はこの奇跡の生還の報道を通し、テレビドラマで彼が演じる、絶対なる「ボス」のイメージと重ね、応援する。そして、その思いに石原裕次郎自身も応えようとし、彼の入院そのものが、一つのコンテンツとなっていた。 そして9月1日、ついに退院。 「人さまから今回のことでも『強運な男』と言われる私です。私自身はその逆で、なんでこのように周期的につまらない病気にかかるのかと、不運に舌打ちしたくなる思いにかられます」 石原裕次郎が記者会見で語ったこの言葉通り、彼は昭和という時代において、誰よりも強く、誰よりも強運であった。が、同時に、常に病やケガと戦う壮絶な人生でもあった。 妻は「見ているだけで気が狂いそうだった」石原裕次郎は“がん発覚”で痛みに苦しみ…ただ一人告知を考えた“ある人物” へ続く
田中 稲