【評伝】「横綱の地位とは何か」自ら問い続けた曙さん 土俵入りの所作、最高位の重みなどを学び続けた
大相撲の第64代横綱で、プロレスラーの曙太郎さんが、心不全のため、東京近郊の病院で死去した。54歳だった。関係者によるとリハビリのため入院していた病院で、家族と会話できる状態だったが容態が急変し、亡くなったという。4月に入ってからで死亡日時は公表していない。葬儀・告別式は近親者のみで営む予定。 【写真】曙さんと一緒に時代を築いた4横綱 顔ぶれがとにかく豪華 * * * * * 曙太郎さんの名は、大相撲史上にさんぜんと輝く。初の外国出身横綱としてだけではなく、同期生でともに横綱となった3代目若乃花、貴乃花の「若貴兄弟」と一緒に、平成の大相撲ブームを担った。 ライバルに2場所遅れて初優勝した92年夏場所後の大関昇進を機に、しこ名・曙の「者」の部分に「、」を入れた。同年5月28日付のスポーツ報知では、「天(下)を取ったら点(、)を入れる」という意味が込められていると報じた。 全盛期は3連覇など年4場所を制した93年。若貴兄弟と3人による優勝決定ともえ戦で連勝した同年名古屋場所が最高の晴れ姿だろう。内面には日本の心が宿っていた。同年初場所後に横綱へ昇進すると「横綱の地位とは何か。一から勉強したい」と申し出て、当時の立行司で第28代木村庄之助を訪ねた。両者を仲介した人物によると何度も足を運び、土俵入りの所作に含まれた意味や最高位の重み、大相撲の歴史などを真剣に聞いた。大きな体を丸め、食い入るような視線でうなずく光景は純粋さにあふれていたという。 教えを忠実に守り、稽古場では若手力士に胸を出した。求道者のように自らの稽古を突き詰めた貴乃花とは好対照。生前、曙さんは「横綱はただ勝つだけではない。下の者の力を受け止め、引っ張り上げるのも大事な仕事」と語っていた。 96年4月に日本国籍を取得し、98年長野冬季五輪の開会式では日本を代表して横綱土俵入りを披露した。 01年の引退後は志半ばで親方を辞した。格闘家に転じた第二の人生は不遇とも言えた。だが、数年前まで出席した角界の「同期会」では昔話に心の底から笑っていたという。波乱の生涯の中心には、常に相撲が息づいていた。
報知新聞社