家で面倒を見きれない「高齢者」を次々と殺した…「死の天使」を自称し、42人を殺した「4人の看護師」
---------- だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 【写真】人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。 ----------
ウィーンの病院で起きた慈悲殺人事件
安楽死法が制定されていないオーストリアで、一九八九年に衝撃的な事件が発覚しました。 ウィーンにある国立ラインツ病院で、四人の看護師が数年にわたり、計四十二人の患者を殺害したのです。 このニュースを、私は当時勤務していたサウジアラビアで知りました。現地の英字新聞に、事件の詳細と容疑者である四人の看護師の顔写真が掲載されていました。 記事によると、事件は特定の看護師が夜勤をしたときにだけ、亡くなる患者さんが異常に多いことから発覚したそうです。しかし、四人は無闇に患者さんを殺害したのではなく、高齢で治癒の見込みのない患者さんが、呼吸困難やがんの末期症状に苦しんでいるのがあまりに気の毒だったので、見るに見かねて安楽死をさせたのだということでした。つまり、慈悲による殺人です。方法は、インシュリンの致死量投与や、気管チューブに水を入れるなどでした。 その時点では、看護師の行為に理解を示す世論もありました。ところが、捜査が進むと、慈悲をかける相手が、気の毒な患者さんから、次第に厄介な患者へとシフトしていったことが判明したのです。つまり、手のかかる患者、文句の多い患者、ベッドに粗相をする患者さんなどが、「慈悲」の名のもとにあの世に送られていたわけです。 いわゆる“滑りやすい坂”が現実になった事例で、このニュースを知ったとき、私はやはり安楽死法は安易に作るべきではないなと感じました。 今回、この原稿を書くために改めて調べてみると、ネット上には、主犯格の看護師が患者を殺害することで神のような力を感じて、楽しさを味わっていたとか、四人が自らを「死の天使」と呼んでいたとか、犠牲者は数百に及ぶ可能性があるなど、事件の凶悪さ、陰惨さを報じたものが見られました。 やはりなと、ニュースを知った当時の印象を再認識しましたが、事件について詳細に書いた論文を見つけ、それを読むことで、私は自分の薄っぺらな理解を思い知らされました。 論文のタイトルは「ラインツ病院殺人事件:比較文化論的考察」で、著者は清水大介氏。『京都大学文学部哲学研究室紀要』(一九九八年)に発表された論文です。 それによると、事件が起こったラインツ病院・第一医療部は、当時、患者の半数近くが七十五歳以上という特殊な状況で、「老齢末期患者の終着点、吹きだまりとも言われるべき病院」だったようです。看護師たちの勤務環境も劣悪で、正規の看護師は自分たちの労働負担をふやすようなことには手を出さず、当事者の四人を含む補助看護師に現場の汚れ仕事が任されていた実態があったそうです。明らかに人手不足なのに、ウィーン市は人員増加を認めず、社会の高齢化に伴い、家で面倒を見きれない老齢終末期患者を、家族がどんどん病院に送り込んでくるという背景もありました。現場の監督も不十分で、規則違反ではあるが、補助看護師による注射も容認されていたため、殺害の手段としてインシュリンや鎮静剤が使われたのです。 記事やネットでは四人の写真が同じ大きさで掲載されていますが、関わりの度合いは大きく異なり、主犯格に追従しただけの人、あるいはほとんど関与していない人もいることがわかりました。写真だけ見た印象では、明らかに四人は同罪と感じてしまいます。 こういう事件では、世間の眉をひそめさせる事実だけが、つまみ食いのように強調され、背景や現場の事情が無視されることがままあります。それによって、誤った印象が流布され、感情的な反応が引き起こされるのは好ましくありません。 実際、私の引用もつまみ食いなので、興味のある方はぜひ論文をお読みください。ネットでも公開されていますので。 さらに連載記事<突然、看護師が「遺体の肛門」に指を突っ込んで…人が「死んだあと」に起こる「意外なやりとり」>では、人間が死んだ後の様子について詳しく解説しています。
久坂部 羊(作家)