14代将軍・徳川家茂と皇女和宮に愛はあったのか? 公武合体を目指した政略結婚のゆくえ
NHKドラマ『大奥』幕末編では、14代将軍・徳川家茂と皇女和宮の婚姻が描かれた。公武合体を掲げた完全な政略結婚ながら、史実でも家茂と和宮の夫婦関係は良好だったという。もしも家茂がもっと長生きしていたら、歴史はまた違っていたかもしれない。 ■幕府と朝廷の思惑による政略結婚で結ばれた将軍と皇女 14代将軍・徳川家茂との関係で、幕末政治史上に有名な女性が登場する。幕府サイドからの要請を受けて家茂と結婚することになった皇女和宮(1846~77)である。安政の大獄では、朝廷内にも犠牲者が出たことで、朝廷と幕府との関係は当然のことながら悪化した。そこで、良好な朝幕関係を再度構築するために、家茂の御台所(妻)に皇女をという話がでてくる。 この話が持ち上がったのは、安政の大獄が始まった段階であった。しかも、幕府内のみならず、朝廷関係者からも政情の安定のために皇女の降嫁が必要だとの声があがった。対象となった皇女は3人いた。が、1人は家茂より18歳上、1人は1歳の幼女であったため、結局和宮だけが残った。 しかし、和宮には有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)という婚約者が既にいた。その上、兄の孝明天皇も和宮の生母もともに反対した。それになにより、和宮本人が夷人(外国人)の住む地だと思い込んでいた江戸に下ることを大変嫌がったので、この話は進展しなかった。 結局、和宮降嫁の交換条件として、孝明天皇が望む攘夷の決行を幕府サイドが約束したために、和宮はいやいやながら承諾して、両人の結婚が文久2年(1862)の2月に実現することになった。 もっとも、和宮の降嫁が勅許されるにあたり、幕府が10年以内での日米通商修好条約破棄を約束したことで、皮肉なことに両人の結婚は政治の安定にはつながらなかった。いやそれどころか、逆に、攘夷派が幕府を激しく追い詰める材料(要因)となった。また、和宮降嫁に猛反対した者のなかから、家茂と和宮両人の婚儀を直前に控えた文久2年正月15日に、老中安藤信正を江戸城の坂下門外で襲撃する者も現れた。 和宮は降嫁条件として以下を挙げていた。 ・父仁孝天皇の17回忌の後に関東へ下向し、以後回忌ごとに和宮を上洛させること。 ・大奥に入っても万事は御所の流儀を守ること。 ・御所の女官をお側付きとして連れてくること。 ・御用の際には伯父である橋本実麗を下向させること。 ・御用の際には上臈か御年寄を上洛させること。 ところが、和宮付きの女官として共に江戸に下った庭田嗣子の書簡によれば、和宮の要望がほとんど守られず、大奥の女中たちと折り合いが悪く、和宮が涙したこともあったそうだ。 しかしながら家茂と和宮の関係自体は非常に良好だった。家茂の死後、和宮のもとには長州征伐の土産として用意されていた西陣織が届き、和宮は「空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」と詠んだという。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部