奄美は「小さくも大きな飛行機」だった 特集・JAL移住CA持木さんから見た群島の魅力
「離島が多い奄美群島を一つの機内と捉えて、自分の足で島々を回りながら課題や悩み、やりたいことを聞き取り、自分自身が楽しみながら私にできることを提案していきたい」──。2年前の2022年4月5日、東京・天王洲の日本航空(JAL/JL、9201)本社で、客室乗務員の持木絹代さんは意気込みをこう語った。 【写真】奄美に移住したJALの客室乗務員、持木さん 2020年から影響が及んだ新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で、航空会社は大きな打撃を受けた。飛行機が飛ばないという未曾有の事態に、JALは客室乗務員が出身地など全国各地に移住し、地域の魅力を発信する「ふるさとアンバサダー」制度を2020年8月にスタート。持木さんは2022年4月から2年間、鹿児島県の奄美大島へ移住し、地域の魅力を内外に発信してきた。 関東出身の持木さんが奄美と接点を持ったのは同期との旅行で、その3カ月後にアンバサダーの募集があった。それまでも離島を旅することがあった持木さんは、「きれいだな、また来たいな、と思うところはありますが、住みたいと思うところはなかなかないです」と、奄美の魅力を実感しており、移住を伴うアンバサダーに立候補するのは自然な流れだったという。 一方で着任すると、大きな規模の企業が奄美にはなかなかないなど、地元企業と連携した商品開発が難しいといった悩みもあった。 奄美に移住した2年間で、持木さんは「奄美群島を一つの機内」として捉えて活動できたのだろうか。離任を目前に控えた持木さんに、奄美で話を聞いた。 ◆乗務開始1カ月でマスク生活 持木さんは2014年に客室乗務員として他社へ入社後、教育分野に関心を持ちワーキングホリデーで豪州へ渡り、留学会社で働いていた。JALには帰国後の2019年に客室乗務員として入社。乗務が始まったのは同年12月、コロナによる大量減便が始まる直前だった。 「1カ月フライトしたらマスク生活に入りました。国内線に8カ月くらい乗務した後、国際線乗務も始まりました」と振り返る。奄美へ旅行した3カ月後にあったアンバサダーの募集に名乗り出た持木さんだが、「もし1年後だったら手を挙げなかったかもしれませんね」と、タイミングも重要だった。 国内の航空会社では、客室乗務員のキャリアは入社同期とほぼ同じタイミングで次のステップへ進んでいくが、アンバサダーは2年程度の任期で赴任先へ移住する。つまり、任期を終えるころには自分と同期には2年のキャリアの差が生じてしまう。 「JALにはママさんCAも多く、JALだったら受け入れてくれるのではないか、と思いました。1-2年離れてもやっていけるだろう、と移住することにしました」と、まずは奄美へ飛び込むことにした。 しかし、実際に活動してみると、企業との連携がしやすい地域と比べ、短期間で成果を出しにくい状況に悩むこともあったという。 ◆「このままでいい」とどう向き合うか 奄美へ移住した2年間を振り返って、持木さんは「まいてきた種の芽が出てきたところです」と話す。地元企業とコラボレーションした名産品の開発といった、周囲に活動内容を具体的に示しやすいものを打ち出しにくく、観光名所のPRが中心になりがちなことに「これでいいのか? 葛藤がありました」と、地域とのふれあいにやりがいを感じつつも、地域活性化という短期間で成果を示しにくい分野にありがちな壁に、持木さんもぶつかっていた。 商品開発に取り組むと、地元の人たちとの価値観の違いも実感する。持木さんは島の名産品を県外にも知ってもらおうとアイデアを出すが、「島の人たちは島内に供給するので十分、ということが結構ありました」と相違が感じられた。自治体やJALが積極的に奄美の名産品を国内外に紹介したい、という思いとは裏腹に、島の人たちからは「このまま」を望む声を聞くことが想像以上にあったという。いまの暮らしで十分、と考えている人が思いのほか多い、ということだ。 「思っていたのと違うな、と感じましたが、だからといって諦めようとは思わなかったです」と、持木さんは視点を変えて活動に取り組む。奄美の良いところをメディアに取り上げてもらうだけではなく、島の人に課題や解決策を知ってもらうことにも注力した。 持木さんは自治体の審議会や分科会にも呼ばれるようになり、島外から来た視点を求めれられた。「例えば(都心では一般的な乗降口に段差のない)ノンステップバスの存在が広くは知られていないなど、それ故にこのままでいい、という雰囲気になっていることもありました」と、ほかの地域での解決事例を紹介することで、「このままでいい」となっていた課題に、動きがみられることもあったという。 「JALのノウハウを少しずつ還元して、これいいかも、と思った人からやっていく、というので良いのではないかと思います。時間はかかりますが、10年後に良くなれば」と、まちづくりで一般的な5年、10年のスパンで、島の暮らしが良くなっていくことを願う。教育分野に関心を持つ持木さんは、小学校などで子供たちとふれ合う場も積極的に設け、空の仕事にも理解や興味を持ってもらうよう、心掛けていた。 ◆過度に観光地化されていない“ちょうどよさ” 離任を控えた3月。持木さんは地元団体からの依頼で講演した。島外から来た持木さんから見た奄美の魅力として「ちょうどよい島の栄え方」「可能性があふれている」といったことを挙げた。同じ南の島でも、沖縄ほど観光地として発展しすぎていないことや、スーパーでの買い物からつながりが生まれるといった、実際に2年間住んだ視点で奄美の魅力や課題として感じたことを話した。 「単にスピード感で発展するのではなく、ちょっとだけ良くなれば奄美ブランドを確立できるのでは、と思います」と、自然が豊かで過度に観光地化されていない現状で、暮らしやすくなれば奄美の良さを維持した発展につながると、持木さんは感じている。 奄美大島の中心街、名瀬。奄美群島で唯一のアーケードを有する名瀬中央通りなど、7つの商店街で構成する「奄美なぜまち商店街」では、各店舗のキャッチコピーを募集した。このイベントを手掛けた地元企業、まちづくり奄美の元野建三さんによると、名瀬は繁華街と商店街が少し離れているため、こうしたイベントを企画しているといい、8月は毎週どこかでお祭りが開かれているという。 持木さんもキャッチコピーを募集するイベントなどに参加。商店街の人たちもすっかり顔なじみとなり、溶け込んでいた。 ◆客室と地域の二刀流 「うちの客室乗務員は非常に優秀。もっと色々なところで活躍してほしい」。赤坂祐二社長(当時、現会長)は、2020年当時大量減便により余剰となっていた客室乗務員約1000人を活用し、地域活性化を進める「地域事業本部」を立ち上げた。 「新型コロナ前からやりたかったことがマルチタスク化。客室の仕事だけではもったいない。社員の二刀流を目指したい」と、結婚や子育てで乗務が難しくなっても、定年まで働ける環境作りを視野に入れたものだった。 一方で、2023年5月に新型コロナが感染症分類で「5類」へ移行して以来、空の旅客需要は旺盛なインバウンド(訪日)需要を中心に急回復しており、企業などへの出向を終えた客室乗務員は次々に現場へ復帰している。 赤坂氏に今年3月、2024年度の方向性を尋ねた。「できれば継続し、拡大したい。地域や地方で我々の客室乗務員に対する評価が高く、もっともっと活躍する場があると思う。それを見越した採用計画などを作っていきたい。優秀な客室乗務員が(客室乗務と地域活動の)ハイブリッドで活躍できる環境にしていきたい」という。 ◆奄美は「小さくも大きな飛行機」だった 4月に入り、持木さんも近く奄美を離れ、乗務に復帰する。赴任前に話していた「奄美群島を機内として捉える」という抱負を実現できたかを聞いた。 「奄美群島5島にそれぞれ3-4回は、プライベートも含めて足を運ぶことができました。メディアで島や特産品をPRする際は、必ず群島5島を意識して提案してきました」という。メディアが奄美を取材する際、奄美大島以外も訪れてもらえるような取材日程を提案したり、難しい場合は写真だけでも取り上げてもらう、特産品は必ず群島5島のものを入れて提案する、といった形で、極力すべての島を紹介できるよう心掛けた。 JALの自社媒体「On Trip JAL」で今年1月に喜界島を取り上げ、全5島を紹介する目標も達成した。そのOn Trip JALの取材で訪れた喜界島では、初めて会う人も含め8人ほどの人が朝から夕方まで持木さんを案内し、最後は総出で奄美大島へ戻る持木さんが乗った飛行機を見送った。機内から見送る人たちを見た持木さんは、感激して思わず涙を浮かべたそうだ。 奄美の魅力は「島によってまったく魅力が異なることなのですが、一番印象に残ったのは『人』でした。私の勝手な印象かもしれませんが、再び奄美群島を訪れる方たちは、『またあの人に会いたい』と足を運ぶ方が多いような気がします」と、島の人たちの温かさが何よりの魅力だという。 最後に奄美群島を飛行機に例えると、どんな機体に見えたかを聞いてみた。「小さく見えてとても大きな飛行機でした。一見、外から見れば同じように見えても、その中に薩摩文化と琉球文化が混じっており、島によって魅力が異なります。奄美大島の中でも、5市町村で個性が異なりました」と、奄美は小さくも大きな飛行機だった。
Tadayuki YOSHIKAWA