「ふてほど」で再注目「マッチ=近藤真彦」は最近、どうしているのか
低迷期の立役者として
近藤は1979年10月にスタートしたTBS系ドラマ、「3年B組金八先生」の生徒「星野清」役でデビュー。同じ生徒役だったトシちゃんこと田原俊彦(63)、よっちゃんこと野村義男(59)とともに、「たのきんトリオ」として売り出されて活躍した。1980年12月には「スニーカーぶる~す」でソロ歌手としてデビューするや、トップアイドルとして君臨。「ギンギラギンにさりげなく」(81年)などヒットを重ね、87年の「愚か者」で第29回日本レコード大賞を受賞した。 「マッチが15歳でデビューしたのは79年ですが、前年にフォーリーブスが解散、さらにその3年前には郷ひろみが移籍しており、売れっ子がいなくて低迷していた旧ジャニーズにとって、たのきんトリオは文字通りの救世主となりました。田原も歌手として、野村はバンド・The Good-Byeを結成してそれぞれ活動。その後、野村と田原が退所し、マッチのみが残りました。すでに、先輩たちは退所していたこともあって、自然に“ジャニーズの長男”として扱われ、周囲から持ち上げられるようになったのです」(スポーツ紙記者) 近藤が長男のポジションを得たのは、事務所低迷期の立役者であることはもちろんだが、もう一つの理由もあるという。 「早くに母親を亡くしたマッチは、ジャニー氏の姉で、元会長のメリー喜多川氏が母親のような存在でした。逆にメリー氏にとっても、マッチは息子のような存在。マッチがレースにのめり込むようになっても資金面で援助するなど、寵愛していました。その状況もあって、いつしか後輩タレントたちは誰も物申せなくなっていたのです」(同) プライベートでは94年に一般人女性と結婚。その後、07年10月に待望の第1子となる男児が誕生した。マイペースで芸能とレース活動を行い、旧ジャニーズでの地位は安泰かと思われていた。ところが、19年7月にジャニー氏が死去すると状況が一変。「週刊文春」で不倫疑惑が報じられたことに伴い、20年11月、本人の申し入れもあり、無期限の芸能活動自粛処分となったが、その処分が解かれない中の21年4月30日、同社の公式サイトで同日をもって事務所を退所することが発表された。 「ありがとうジャニーズ ありがとう素敵な後輩達 ありがとうジャニーさん」と感謝の思いをつづった近藤に対し、後輩の東山紀之(57)は、キャスターを務めていたテレビ朝日系の情報番組『サンデーLIVE!』に生出演し、「僕自身は、今回の退所の仕方に大きな疑問が残っている。後輩たちにもファンの人たちにも何の説明もなかったんで、それは説明をしたくなかったのか、することができなかったのか。それとも、これからするのか 」と、厳しいコメントを寄せていた。 「退所した翌月の5月に、レース活動を控えていたのです。2000年に『KONDO Racing Team』を創立してからは、レースが本業になっていましたが、自粛処分を受けたままだと、何もできない。ジャニー氏が亡くなり、同年8月に亡くなるメリー氏の先が長くないことも悟った上での決断というか、潮時と悟っての電撃退所劇でした」(民放テレビ局関係者)