田沼意次は「遊び」に対してどんな考え方をしたか? 武士としては「意外すぎる」姿勢がおもしろい
「芸能」への態度
大河ドラマ『べらぼう』は、江戸中期の出版プロデューサーである蔦屋重三郎の生涯を描くものですが、当時の最高権力者の一人である老中・田沼意次も重要人物として登場します。 【写真】天皇家に仕えた「女官」、そのきらびやかな姿 田沼は同作で、「商売に工夫を!」と求めたり、悪そうな顔で賄賂を受け取ったりと、クセの強い人物として描かれていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか。 彼のパーソナリティについて教えてくれるのが、『〈名奉行〉の力量 江戸世相史話』という本。 日本近世史を専門とする東京大学名誉教授の藤田覚さんが、江戸社会の実態をつぶさに描き出した一冊です。当時「名奉行」とされた人物の力量から、徳川吉宗の知られざる性格など、江戸時代の社会のあり方をさまざまな角度から照らしています。 本書では、田沼のパーソナリティが、松平定信との対比で紹介されています。松平定信は、田沼のつぎの時代に老中となった人物で、田沼政治を批判したことで知られます。 興味深いのは、「遊び」にたいする二人の対照的な姿勢です。『〈名奉行〉の力量 江戸世相史話』より引用します(読みやすさのため改行や表記を一部編集しています)。 *** 生い立ちも幕府政治家としてのスタイルも対照的な意次と定信は、「遊芸」「芸能」への対応も対照的だった。 まず、「遊芸」とは何か。『広辞苑』(第七版、岩波書店)によれば、「遊びごとに関した芸能」のことで、具体的には、謡曲・茶の湯・いけ花・舞踊・琴・三味線・尺八・笛・香・講談・浪花節・落語・俗謡などがあげられている。『日本国語大辞典』(第二版、小学館)は、ほぼ同じ説明とともに、かなり古い語意らしいが「文芸の世界。学問、文学」があげられている。 「芸能」とは、平賀源内(1728~1779)が宝暦十三年(1763)に、辻講釈師深井志道軒を主人公にして世相を風刺した滑稽本『風流志道軒伝』によると、立花・茶の湯・鞠・揚弓・詩歌・連誹があげられ、歌舞音曲などの芸事だけではなく、遊技、遊芸、文芸も含むものとして使われている。やはり、「遊び」「遊ぶ」という点が大切らしい。 意次は、いつかはっきりしないが、大名になって以降のある時期に、子孫に対して遺訓を作成した。そして、意次自筆の本紙の写本を作り、毎年正月に家老と中老を一室に集めて読み聞かせる儀式を行うよう指示している。現在、意次自筆の本紙は伝わらず、草稿の「遺訓案」(個人蔵)が残っている。遺訓は全七ヵ条からなり、その第五条がつぎの文章である。 武芸懈怠なく心がけ、家中の者どもへも油断なく申し付け、若き者どもはべっして出精候ように心がけさせ、他見苦しからざる芸は、おりおり見分致させ、ままには自身も見物これあるべく候、かつまた、武芸心がけ候うえ、余力をもって遊芸いたし候義は勝手次第、差し留めに及ばず候事、ただし、不埒なる芸は致させまじきこと、もちろんに候、 現代語にすると、「藩主自身は武芸の稽古を怠りなく励み、家来へも油断なく命じ、若者たちはとくに武芸に励むように心がけさせ、人に見せても構わない武芸は、師範役などに点検させ、ときおりは藩主自身も見物しなさい。また、武芸稽古に熱心に取り組んだ後の余力で遊芸をするのは自由なので、禁止する必要はない、ただし、不埒な遊芸をさせてはならないのは当然である」となる。 大名自身と家来に武芸修練を勧めるのは当然だが、その余力で家来たちが遊芸を嗜むことは自由、という遺訓・家訓は珍しいのではないか。 意次が禁止するなという不埒ではない遊芸とは何なのかよく分からない。幅広く「遊び」「遊ぶ」ことに関わる芸能、近代風にいえば趣味のことだろう。 *** 武士であるにもかかわらず「遊び」にたいして寛容だった田沼。だからこそ、蔦屋重三郎の出版プロデューサーとしての仕事も成り立ったのでしょう。『べらぼう』の時代背景もつかめる一節です。 さらに【つづき】「徳川吉宗は、家臣に「気さくに話しかけていた」…? 意外すぎる「吉宗の肉声と行動」」の記事では、徳川吉宗の知られざる一面について見ていきます。
学術文庫&選書メチエ編集部