【甲子園100年物語(8)】球場だけではない 甲子園はスポーツ&レジャー施設が勢ぞろい
8月1日に甲子園球場は開場100年を迎える。「甲子園100年物語」と題した連載で、“聖地”の歴史や名物の秘話などを紹介する。(井之川昇平) 阪神電鉄の三崎省三が構想したのは野球場だけではない。「武庫川、鳴尾一帯をリゾート地に」。それが、欧米視察時代に抱いた夢だった。その実現の第一歩が1924年に開設した甲子園大運道場(球場)で、さらに次々と開発を進めていく。 25年、甲子園海水浴場をオープンし、26年に甲子園駅から浜甲子園駅までの甲子園線を開通。28年に浜甲子園プール、29年に甲子園娯楽場、甲子園南運動場を開いた。 32年に阪神パークと改称された甲子園娯楽場は、最先端の遊具のほか、動物園もあった。阪神パークといえば、2003年まで球場の南東、現在のららぽーと甲子園の場所に存在したが、それは二代目。初代は海岸沿いにあった。 そんなレジャー施設とともに、球場と並ぶ重要なスポーツ施設として、甲子園南運動場が造られた。一周500メートルのトラックの内部にフィールド。ここでサッカー、ラグビーなどの試合を行うことができた。現在の全国高校サッカー、全国高校ラグビーの前進の大会は、甲子園球場で行われていたが、この南運動場へ“引っ越し”。現在は国立競技場、花園ラグビー場がそれぞれの目指す舞台だが、サッカー、ラグビーも野球と同様に「甲子園」が“聖地”だったのだ。 阪神はさらに、35年に阪神水族館、37年に甲子園大プール、甲子園国際庭球場を開設した。大プールは球場の横、現在の室内練習場・タイガースのクラブハウスの場所だ。テニスに関しては、国際試合が開催可能な国際庭球場のほか、100面ものテニスコートが造られた。戦後は甲子園競輪場が建ち、今はマンションとなっている場所である。 南運動場、大プール、国際庭球場を備えた甲子園。阪神間の歴史などに詳しい丸山健夫・武庫川女子大名誉教授は「甲子園はオリンピックが開催できるようなスポーツ王国だった」と言う。 そのスポーツ&レジャー施設たちがあっという間に姿を消していく。戦争だ。鳴尾にあった川西航空機で戦闘機を製造。それらを各地に飛ばすために飛行場を造った。鳴尾球場があった鳴尾競馬場、阪神パークなどが海軍に接収され、甲子園・鳴尾一帯は海軍基地とされた。終戦後は米軍の施設に変容。今では、甲子園と言えば野球場を連想するが、1930年代の「甲子園」は一大スポーツ&レジャー地区。むしろ唯一生き残った「甲子園」が野球場だとも言える。
報知新聞社