シェイクスピアも『転売ヤー』をやっていた!? 小麦やトウモロコシで巨額の富を稼いだ
イギリスの大文豪・シェイクスピア。低く見積もっても当時の学校教師の10倍は稼いでいたと見られる。さらに、じつは故郷で「転売ヤー」をやっていたことが近年の研究で明らかになっており、『ヴェニスの商人』以上の守銭奴であったと考えられるのだ。どういうことか、詳しくみていこう。 ※本稿は、文豪100人のこじらせた素顔を紹介する書籍『こじらせ文学史』より一部を抜粋・再編集したものです。 ■違法な転売で起訴されていた シェイクスピアは、17世紀初頭のロンドンで大人気の俳優兼劇作家だっただけあり、その当時の年収は低く見積もっても200ポンド(現代日本円でおよそ2000万円)以上はあったと言われる。 当時の学校教師の10倍は稼いでいたのだが、劇作家時代から、彼の収入には投資による不労所得が含まれていた。シェイクスピアは、若い頃から劇作で得た収入の多くを投資にまわしており、47歳頃には劇団関係の仕事などはすべて辞め、故郷で悠々自適の隠居生活を実践しはじめたという。 しかし、近年の研究では、シェイクスピアが故郷で「転売ヤー」にジョブチェンジしていたことが明らかになっている。 ジェーン・アーチャー博士など、イングランド・ウェールズにあるアベリストウィス大学の研究者たちの調査によると、シェイクスピアは自身が所有する広大な畑でとれた小麦やトウモロコシなどの穀物を蓄えさせ、不作の年に法外な値段で転売して巨額の富を得ていたという。 これは当時のイギリスでも違法行為で、1598年2月には、あまりにあくどい転売を行って起訴された。かろうじて牢屋に入らずに済んだのは、当局に罰金を払ったからだが、シェイクスピアがこの手の摘発を受けることは珍しくなく、脱税の常習犯でもあった。 ■妻への遺産は「二番目に良いベッド」 こういうあまり誇れない手段で、故郷の街ストラトフォード・アポン・エイヴォンだけでなく、イングランド中部ウォリックシャーを代表する大地主に成り上がったシェイクスピアだが、8歳年上の妻・アンとは不仲で、長男・ハムネットが11歳で夭逝したあとは跡継ぎの男子に恵まれず、せっかく獲得した貴族の位や紋章をはじめ、自慢の土地、財産の継承には失敗した。 死の数週間前に書かれた遺言で、妻にはあてつけのつもりか「二番目に良いベッドを付属品つきで残す」とだけ書いたのも有名だ。当時のイギリスの市民法では、夫の遺言内容に関係なく、妻は夫が残した財産の3分の1を得て、居宅に生涯住む権利が自動的に認められたそうなので、シェイクスピアはその慣習にどうしても抗いたかったのかもしれない。遺書の文面からは長年連れ添ったはずの妻より、長女一家に遺産の大部分を相続させたいという意思が強く感じられる。 (※本稿は、書籍『こじらせ文学史』の一部を抜粋・再編集しています) 画像:シェキスピヤー 著 ほか『人肉質入裁判 : 西洋珍説』,今古堂,明16.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/896970 (参照 2024-04-26)
堀江宏樹