森林浴しながら、古民家で白洲正子の仕事を偲ぶ――長女・牧山桂子さんに聞く“白洲家の流儀”
〈旅行中、白洲さんは風景を食べていた―盟友の脳裡によみがえる人間・白洲正子〉 から続く 【写真】この記事の写真を見る(8枚) 伝統芸能、神社仏閣、骨董また忘れ得ぬ名人たちへの愛惜を書き続けた随筆家・白洲正子。彼女が多くの作品を編み出した茅葺きの家は、いまミュージアムとして一般公開されている。幼い頃からその地で育ち、今も暮らす、長女で著述家の牧山桂子さんにお話を聞いた。(写真:石川啓次) 取材・文 文春文庫 ◆◆◆ 小田急線の鶴川駅から徒歩15分。いまや町田市の史跡に指定されている旧白洲邸「武相荘」をたずねた。街道から小道をあがり、初夏の日射しを浴びる瑞々しい緑の樹々の間、少し濡れた土の上に敷かれた石を歩く。 白洲正子の長女・牧山桂子さん(84)はテラスで待っていてくれた。紺色のツーピースにデニムのジャケット、父上・白洲次郎似の美貌が健在の、エレガントな婦人である。 「これ、どちらもユニクロよ」 両耳にはジェンセンのイヤリング。 「結婚前に、ねだって、次郎さんに買ってもらったの。正子さんも私も、宝石はあまり好きではなくてね」 平日の午後、母親と娘とおぼしき来館者が会釈をして帰っていく。敷地内のカフェの一角でお話を聞いた。はじまったばかりという季節のデザート「カッサータ」が冷んやりと甘く、濃いコーヒーとの相性が抜群だ。壁のステンドグラスは一枚一枚、微妙に模様が異なる。取り壊される友人の家のヒノキの床を譲り受け、変身させたというテーブルもある。大事に保存されている古いものに囲まれながら、贅沢なおしゃべりの時間を満喫した。
正子さんの書いたものは怖くて読めない
「『精選女性随筆集 白洲正子』、申し訳ないけど、まだちゃんと読めていないの。私ね、だめなのよ。正子さんの書いたものを読むのが怖いの。彼女が失敗するんじゃないかと思って」 桂子さんは白洲正子が30歳で産んだ娘で三人兄妹の末っ子だ。 「二人、兄がいるんだけど、正子さんは、自分の世界が大事な人で、長兄と私は殆どほったらかし。次兄は身体が弱かったこともあり、可愛がられていたけど。でも、どこの家でも親ってそういうものだろうと思っていたから、恨む、とかそういうのはないの。中学生くらいの頃から、ずっと自分のことは自分で決めてきた。それに、ある時点で、母親と娘って役割が入れ替わるものじゃない」 気品と気骨あふれる名随筆が後進の生きる道標ともなっている白洲正子だが、意外というべきか、やはりというべきか、家事はできなかったという。伯爵令嬢という環境もあろうし、やがては文筆の血となり肉となる「遊びと勉強」に終生献身していたゆえかもしれない。正子の後半生においては、桂子さんがそれこそ「母親」のようなかいがいしさで、その暮しと仕事を支えていた。車好きの次郎から運転を教えられた桂子さんは16歳で免許を取得、晩年、よく京都に取材に行っていた正子を、新幹線の新横浜まで送迎したという。幼い頃からお手伝いさんが料理をする姿を眺めているのが大好きだった桂子さんは、『白洲家の晩ごはん』などの著作があるほどの料理の腕前である。 「次郎さんから“お前のおふくろさんみたいになるなよ。メシも作れない”と、二言目には言われたの(笑)。若気の至りで熱烈恋愛結婚だったくせに。正子さんからは“自分だけのものを持ちなさい”と言われたけど、それには反発心しかおこらなくて(笑)。正子さんは母親業にも主婦業にもあまり関心を持っていなかったけど、次郎さんはちゃんと父親をやろうとしていた。私が生まれた時“この娘が酒を飲めなかったらどうしよう”と思ったんだって。正子さんは、飲むと、顔が真っ赤になっちゃうの」 学齢の頃、父・次郎と次兄、桂子さんの三人は、年末年始の2週間、スキーに行くのが恒例だった。行き先は最初は志賀高原、のちに蔵王となった。 「志賀高原は次郎さん運転のランドローバーで無理矢理、丸池まで行くの。その頃、アメリカの進駐軍が接収していた丸池ホテルに、次郎さんの知り合いがいたみたい。そのホテルの中は文明社会なんだけど、少し離れた、我々のスキー小屋では、裏に雪穴を掘って、コロッケなど、東京から運んできた食糧を埋めておくの。ご飯とみそ汁は、毎日夕方に、木戸池ヒュッテというところから届けてくれていた。おかず作りは父と私の仕事だったの。小屋の近くに湖があってね。地元の漁師たちが毎日釣りをしているから見に行っていたら、『やってみるか』と釣り竿かしてくれて、すっかり面白くなっちゃった。子供のことだから、あまり釣れなくて、5匹くらい。それを次郎さんがフライパンで焼いてくれる。スキーなんて殆どしなかったわね(笑)。蔵王に行くようになってからは、温泉町があるから、夕方になると、次郎さんと橇(そり)に乗って買い出しに行ってた。楽しかったといえば、楽しかったわね」