「あなたは私の夫を殺しましたか?」と尋ねまわる女性...イラン刑務所での苛烈な拷問と独房監禁でおかしくなっていく女性囚人たち
心が壊れてしまった囚人たち
マルジエという名前の女性は、毛布の下で何時間も独り言を言い、笑っていた。彼女は苛烈な拷問を受けていた。 ナスリーンという女性は、他の囚人のところに来て片手を差し出し、「あなたは私の夫を殺しましたか?」と尋ねる。私たちが殺していないと答えると、彼女は行ってしまう。そして走りながら夫の名前を呼び続ける。彼女が独房に拘禁されていたことは知っていたが、詳細は分からない。 1981年、私たちはゲゼル・ヘサール刑務所のアンダー・エイト(独房のある区画がそう呼ばれていた。独房拘禁、あるいは暴力を伴う拷問がおこなわれていた)に入れられていた。そこにいたアナヒタという女性囚人は想像を絶する劣悪な環境に置かれていた。ドアの前の鎖に繋がれていたのだ。地獄よりもひどい光景だった。また、モジダン――モジデーだったかもしれない――という名前の元医師がいて、この人はパンしか口にしなかった。食事の肉にはタジール(クルアーンやハディースで明確な罰則が定められていない罪、国の裁量で罰する)を犯した囚人の人肉が入っていると信じていたからだ。 1985年のエヴィーン刑務所にはナデレとタヘレ・Sという姉妹がいた。タヘレは通信技術を学んでいて、ナデレは17歳の学生だ。タヘレは重圧に耐えきれず2回自殺未遂をし、ナデレのほうは正気を失う寸前だった。自分の服を引き裂き、ランプの下に立って、くるくる回り続けた。トイレに行っては、床に這いつくばった。自分に話しかけてくる声がする、といつも言っていた。他人を傷つけるようなことはしなかったが、ある夜、思い出したことを話したい、と寝ていた私たちを起こしたこともあった。 ファルザネーという農業技術者に会ったのは1981年のゲゼル・ヘサール刑務所だ。彼女は当時妊娠していたので釈放され、のちに私も釈放された。再び1985年に逮捕されたとき、ファルザネーも少し前に再逮捕されていたことを知った。そのとき彼女は正気を失っていた。トイレに行こうとせず、汚物にまみれて部屋の隅にうずくまっていた。 本当に独房はつらい場所だ。時間が流れない。独房でわずかでも慰めになるものといえば、他の囚人の声で、そこには連帯感があった。電流ケーブルで打たれて苦痛に悶えたあとは、その苦しみを言葉にして吐き出さないと生きていけなかった。 狭苦しいその場所から、トイレに行くために出ることさえできなかった。トイレは房のなかにあったからだ。外気に当たりに連れ出されることもなく、独房を出られたのは、尋問のときと、週に1回、数分だけ外のトイレを使って良いときのみだった。 私たちは男性看守にいつもビクビクして怯えていた。同志が尋問室で拷問されている声が聞こえると動揺した。 翻訳:星薫子 『「尋問」の精神的ショックで難聴と失声症に...イラン刑務所の「窒息」しそうなほど狭い独房の実態』へ続く
ナルゲス・モハンマディ(イラン・イスラム共和国の人権活動家・ノーベル平和賞受賞者)