巨人公式戦の幕開けは早大・戸塚球場だった…1936年7月1日沢村栄治5失点KO負け3日スタルヒン締め歴史的1勝
現在の東京・新宿区にかつて存在した戸塚球場は、巨人のプロ野球リーグ公式戦初試合と、初勝利の舞台となった場所だ。1936年7月1日、栄えある初戦・名古屋戦は8―9で敗戦。同3日の大東京戦で10―1と勝利を収め、現在6200勝以上を重ねている巨人の第一歩となった。この戸塚球場、実は早大が練習や試合を行っていたグラウンドで、プロ野球開催は計9試合のみ。職業野球創成期ならではの事情が重なったうえで実現したメモリアル試合だった。(樋口 智城) 早大早稲田キャンパスの一角に、同大学野球部の創設者・安部磯雄と初代監督・飛田穂洲の2つの胸像がある。 傍らの記念碑には「ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグラウンドである」の文言。巨人のプロ野球初試合・初勝利の舞台となった戸塚球場はプロ用の施設ではなく、早大の練習や学生野球の公式戦を行う場所だった。 職業野球元年となった1936年の試合形式は、現在とはまるで違った。「第1回日本職業野球リーグ戦」と銘打った4月の春季シーズンは、甲子園での短期リーグ戦。その後2大会は、巨人はいずれも米国遠征のため参加しなかった。帰国後の巨人が初参戦して全7球団がそろい、7月1日から変則トーナメント形式で戸塚球場で開催されたのが、「連盟結成記念全日本野球選手権」東京大会だった。 プロ野球の大会が、なぜ早大のグラウンドで行われたのか。NPBの山本勉記録員は「単純に東京でプロ野球を開催できる場所がなかった」と説明する。上井草球場が36年8月、洲崎球場は10月、後楽園球場は翌37年9月の完成だった。一方、早大野球部はこの年の夏に米国遠征へ旅立っていた。「そこで連盟の市岡忠男理事長が学長に頼み込んで、やっと借りられたんです」。市岡理事長は元早大野球部監督。人脈を駆使し、開催にこぎつけた大会だったのだ。 苦難を経て迎えた巨人の初試合・名古屋戦。エース沢村栄治が3回途中5失点KOされ、8―9で敗れた。トーナメントは今で言うページシステムで、2戦目は大東京との敗者復活1回戦。畑福俊英が6回1失点、スタルヒンが3回0封に抑えて10―1、栄えある初勝利をつかんだ。同2回戦は、金鯱に2―4で敗戦し、大会から姿を消した。 ただ、周囲にはメモリアル試合の意識はなかった。初試合時の読売新聞の見出しは「巨人軍失策に散る」。初勝利時も「巨人軍快調 大東京を撃滅」で、「初」の文字はどこにもなかった。山本記録員によると、プロ野球創成期の記録は、72年コミッショナー裁定で決められたもの。巨人も戸塚での試合直前、後に公式戦とされなかった試合を数回行っており、認識としては「数ある試合の一つ」に過ぎなかったようだ。 それでも戸塚球場の大会には意義があった。巨人のプロ野球初見参、初の関東開催ということもあり、1万人収容の球場は全9試合とも超満員。準決勝は数千人が入りきれないほどの盛況ぶりだった。 戸塚球場でプロ野球が行われたのは、同大会の1週間、9試合しかない。それでも山本記録員は「プロ野球存続への流れを決定づける分水嶺(れい)だったことは間違いない」と断言する。戸塚は学生野球のみならず、プロ野球にとっても感謝すべき球場だったのだった。 ◆日本初ナイターも 戸塚球場は明治時代の1902年に早大が設けた野球場。慶大の三田綱町球場と並び、26年に六大学が合同出資した神宮球場が完成するまで、日本野球の草創期の学生野球を支えた。 巨人の初試合・初勝利、関東初のプロ野球公式戦以外にも、さまざまな「初」が記録されている。08年には、早大と全米チームの対戦で大隈重信が日本初の始球式。33年には日本で初めて照明を設置し、同年7月には早大2軍対新人(大学新入生)の対戦でナイターが行われた。 当時の模様をリポートした雑誌「野球界」には「さては火事かと気の早い連中は『オーイ火事は何処(どこ)だい』と声をかけて居る」との笑い話の記述がある。今回紹介した36年の東京大会では、タイガース―金鯱、タイガース―東京セネタースの2試合でNHKによる日本初のプロ野球ラジオ実況中継が実現した。 49年には死去した安部磯雄の功績をたたえて「安部球場」と改称。87年に閉鎖された。跡地は早稲田大学総合学術情報センターとなり、今に至っている。
報知新聞社