「お父さんの子供として認められたい」元日本代表FWの大久保嘉人氏の長男・碧人のスペイン挑戦
元日本代表ストライカーの大久保嘉人氏の長男・大久保碧人。この春卒業した目黒日大では父と同じ13番を背負い活躍。高校最後の試合となった選手権東京予選、成城学園戦ではケガの影響で後半途中出場ながら、延長戦でイエローカードを2枚もらって退場。チームはその後PK戦で敗れ、"大久保家らしい"サッカー部引退を迎えた。 「父もよく退場していたので、”退場した”と言って家に帰って来て一緒に試合を観た時もありました」と父親の現役時代の話をした碧人は「あの時はカッとなって止まらなくなっちゃって、理性が追いつかなくなってしまった。それで”こういうことか”と父親の気持ちを知りました(笑)」と振り返る。 仕事の都合でその試合を観戦出来なかった父は「(退場したと聞いて)嬉しかったですよ。最後の最後で大久保嘉人(の息子らしい部分)がでたなと(笑)。『良い思い出が出来たな。迷惑はかけたけど、大人になったらそれで酒が飲めるから』って伝えました」と、独特な言い回しで労った。 大久保嘉人氏と言えば、言わずと知れた名手。国見を卒業した後、20年間に渡ってプロとして活躍。Jリーグ歴代最多の191得点を挙げ、2013年から2015年まで史上初の3年連続得点王に輝いた。日本代表としてはワールドカップに2度出場を果たし、スペインとドイツでも活躍したスーパースターである。 その父が海外に初挑戦したスペインで、高校を卒業した碧人もプロ入りを目指すことを決めた。
「スペインに行ったのは僕が産まれて2、3か月だったので、記憶は全くないですが、ドイツの記憶は残っています」。 産まれた直後に父親がRCDマヨルカに移籍したため幼少期をスペインで過ごし、ドイツでの生活も経験。父親の試合をよく観戦していたこともあり、小学校に上がり自然とサッカーを始めた。 しかし、「自分にしかわからないと思いますけど、どうしても父と比べられるプレッシャーがあって、それが結構キツくてサッカーを好きじゃなくなっていました。弟たちは父のフロンターレ時代の記憶もないので、あまりプレッシャーを感じていないと思うんですよ。でも僕は知っているし、長男というのもあって、そこが違うのかなと思います。周りにそれを言ったことはないですが、それは凄く一人で抱えてやっていました。特に誰かに何かを言われた訳ではないんですけど、裏で色々言われてるんじゃないかと勝手に思ってしまっていた」中学校に上がり一度はサッカーから遠ざかる。 「フロンターレで得点王をとった時ぐらいからの記憶ですね。そこから少しずつ凄い人だと理解し始めました」。 ”大久保嘉人の息子”という看板は父親の偉大さを理解するごとに重さを増す。そしてその重圧を背負ってプレーすることが苦痛になっていった。 それでもサッカーに触れる機会が多かった碧人は自然とまたサッカーをやり始めた。そして転機となったのが高校1年の時に体験した海外サッカー留学。短期間とはいえ、初めて”大久保嘉人の息子”という看板を下ろしてプレー。 「”全く通用しないんじゃないか”とも思っていたんですけど、意外とやれた。それにどちらかというと海外の方が向いているなと凄く感じて、帰って来てからも”また行きたいな”とずっと思っていました」。 純粋にサッカーを楽しむ事と手応え、両方をフランスで掴んだ。そして昨年はスペインに渡り、様々なカテゴリーの試合を観戦。スペインの地でプロ入りを目指す決意を固めた。 息子の決意を聞いた父は「成長を感じて嬉しかったですよ!自分がプレーしたところ(スペイン)でやるってことで。あまり自分から(自分の気持ちを)言ってくる子じゃなかったのでそれも嬉しかったですね。プロを目指すんだったらトコトンもがきながら気が済むまでやって欲しい」成長を喜び、背中を押した。