習字にバイオリン 多彩な習いごと 発表会で「荒城の月」を演奏、そろばんは初段? 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<4>
«少年時代に多くの習いごとに通っていた。習字にそろばん、バイオリンまで…。戦場や被災地に駆けつけ、臨場感あふれる写真とホンネをぶつける武骨な文章の「不肖・宮嶋」のイメージからは意外にも思える。その原点は両親の深い愛情に彩られていた» 母はかなり教育熱心で、ひとりっ子の私は常に「勉強しなさい」と言われてました。母は昭和8年生まれで、前の大戦の影響があって、きょうだいの中で唯一、大学に行ってないんです。母が亡くなった後、母のきょうだいから「お前の母親だけ大学を出ていなかった。きょうだいみんな、ふびんに思っている」と聞きました。 こうした生い立ちもあったのか、母は私にかなり厳しかった。ただこれは愛情があふれていたためではないか、と思うのです。少年時代は多くの習いごとに通っていて、なぜかバイオリンも習っていました。7歳か8歳くらいからかな。「やりたい」と言った覚えはないんです。音楽の才能はまったくないですから。発表会で「荒城の月」を弾いた記憶があります。うまく弾けたのかは覚えていませんが…。 図工教室にも行きましたが、こちらは好きでした。幼稚園から小学校の3、4年生くらいまで通ったかな。日曜日ごとに近所の子供が集まって、空き箱で何か作ったり、絵を描いたり…。そろばん塾にも通っていて、暗算で段をもらいました。初段だったかな? そろばん塾に通ったのは小学2年生から2年間くらいです。習字も2年間ほど習いましたが、こちらは段を取ったりとかはありません。振り返ってみると結構、いろいろな習いごとをやってましたねえ(笑)。 «実家は兵庫県の中核市・明石でも、主要駅に近い好立地にある» 父は昭和4年生まれで、やはり前の大戦の影響もあって、14歳から川崎航空機明石工場(現在は川崎重工業)で働いていました。14歳といえば使い走りの小僧ですよね。ただ扱いは社員で、夜は高校に通っていたらしいのですが、戦争が始まってしまい、そんなに通学できなかったのではないかな。あまり話してくれませんでしたので、両親の学歴はほとんど謎です。 収入も多くはなかったようですが、父は家族に不自由はさせませんでした。住んでいた家は社宅で、住所は「川崎航空機社宅南73号」だった記憶があります。その家が終戦後、二束三文で払い下げられた。これは「クリーンヒット」でしたね。山陽新幹線も止まるJR西明石駅から歩いて5分、本当に便利です。私が小学4年生のときに建て替えましたが、それまでは本当にボロボロの社宅で、まきのお風呂にボットン(くみ取り式)便所だったんですよ。