予約は手紙だけの宿…でも「これで十分なんよ」 電話もテレビもない、ぜいたくな時間
「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」。詩人・宮沢賢治が愛し、独自の信仰や北方文化、民俗芸能が根強く残る岩手の日常を、朝日新聞の三浦英之記者が描きます。 【画像】予約は手紙だけ 山奥にある「笘屋」で過ごした〝ぜいたくな時間〟
北上山地、山道の奥に現れた「南部曲がり家」
「豊かさ」とは何か。 そんなことを考えさせてくれる小さな宿が、岩手県野田村にある。 盛岡から車で約2時間半。 北上山地の山道の奥に、かつて馬と暮らした伝統の「南部曲がり家」が見えてくる。 築約165年のかやぶき屋根の宿「苫(とま)屋」。 入り口ののれんをくぐると、中では囲炉裏に火がたかれ、青い煙が立ちこめていた。
「僕らはずっとこれで十分だった」
宿には「ないもの」ばかりだ。 電話がないので、予約は手紙を出さなければならない。 テレビもないし、ゲーム機もない。 ネットもつながりにくいので、会話を遮る、スマートフォンの着信音も響かない。 「あるもの」は限られている。 山々を抜ける風と柱時計のチクタクという音。 宿の周囲を包む濃密な闇。 夕食には山菜と鹿の肉が並んだ。 囲炉裏の火を囲みながら交わす、宿泊客たちとの会話。 有り余るほどの、ぜいたくな時間……。 「これで十分なんよ」と宿を営む坂本充さん(63)は言う。 「僕らはずっとこれで十分だった」 充さんは若い頃、妻の久美子さん(65)と国内外を長く旅した。 英国で出会い、米国で暮らし、欧州や中東をめぐり、11年後、野田村にたどり着いた。 1日数組の客を取り、裏の畑で採れた野菜を食す。 「日々の暮らしに疲れたら、またいつでも『帰って』きなさいね」 久美子さんがやわらかく笑う。 帰り道、いつもよりゆっくりと歩いている自分に気づく。 (2023年5月取材) <三浦英之:2000年に朝日新聞に入社後、宮城・南三陸駐在や福島・南相馬支局員として東日本大震災の取材を続ける。書籍『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞と新潮ドキュメント賞を受賞。withnewsの連載「帰れない村(https://withnews.jp/articles/series/90/1)」 では2021 LINEジャーナリズム賞を受賞した>