妻の倫子、天皇の后・彰子、そして…NHK大河では描かれない藤原道長が死後を託した意外な女性皇族の名前
■藤原伊周の嫡男・道雅との密通騒ぎ また三条天皇も、長和3年(1014)の伊勢への群行に際しての、天皇と斎王の別れの儀式で、本来「別れの御櫛」と呼ばれる斎王の額に黄楊の櫛を挿す儀礼の後はお互いに振り返らない慣習にもかかわらず「振り返らせたまへり(『大鏡』)」――天皇が振り返ったとも、斎王を振り返らせたとも取れる――とあり、娘を可愛いがっていたことは間違いない。 しかし、実際には異母妹禎子に比べてこの待遇、機嫌も悪くなろうというものだ。しかも三条天皇はわずか4年余りで退位、当子の伊勢滞在はわずか1年半足らずで終わってしまい、おまけに彼女はまだ無品のままだった。 そして彼女は帰京後、すでに述べたように、長和5年に、藤原伊周の嫡男の道雅との密通騒ぎを起こす。前章の上東門院女房殺人事件の七年前のことである。 三条天皇は激怒し、彼女は出家してしまう。手ずから髪を切ったとする説(『栄花物語』)もあり、そうだとすれば、父親と長女の壮絶なバトルである。その後彼女は、22歳の若さで世を去っている。 当子の同腹の妹、つまり禎子のもう一人の異母姉に禔子内親王がいる。この人は藤原道長の長男の頼通に嫁ぐ話が頓挫したのち、その弟の教通に嫁いだことで一部には知られている。彼女は寛仁3年(1019)に17歳で着裳、同年三品になっている。まあこのくらいでも天皇の娘としてはかなり高いランクだと考えていいだろう。 二人の姉と比べても、禎子の特別扱いが一段とよくわかる。「道長の孫」の威光はやはりピカピカとこの少女にも及んでいたのである。 ■道長が見出した価値 しかし、なぜ道長は禎子に対する態度を変えたのか、言い換えれば、どういう価値を見出したのだろう。 彰子が裳の腰結を務めたということは、親同然の庇護をおこなうという宣言のようなものだ。つまり彼女は道長だけではなく、実質的な皇族のトップである彰子の傘下にも入ったことになる。 もちろん彼女の母は妍子であることには変わりないが、妍子とは彼女が15歳のときに死別し、両親を失うことになる。 ますます摂関家に依存することになりそうだが、じつは同年、妍子の亡くなる前に彼女は結婚している。相手は東宮敦良親王だった。もともと敦良親王には、道長の末娘の藤原嬉子が東宮妃となっていた。敦良は彰子の次男だから、叔母と甥の結婚である。 ちなみに嬉子の母は源倫子で、長姉の彰子とは約20歳離れていて、倫子が44歳で儲けた末娘だった。 道長は、後一条天皇の中宮にも娘の威子(天皇の叔母で9歳年上)を入れていたから、きわめて近い血縁の結婚を重ね、自分の血統を天皇家に定着させようとしていた。