『1976年の新宿ロフト』 ライブハウス[ロフト]激動の半世紀 釣那降矢
フェイス・トゥ・フェイスの場を大切に
ライブハウス「ロフト」創業者・平野悠の著書、星海社新書『1976年の新宿ロフト』が1月下旬に発売され、その刊行を記念したトークライブが2月7日にロフトプラスワンにて開催された。 当日は本書の編集担当である星海社の築地教介が司会を務め、第一部では、昨年末に『72年間のTOKYO、鈴木慶一の記憶』を株式会社blueprintより上梓した音楽評論家・宗像明将がロフトの歩みを平野に訊く形式で進行。宗像は以前、コロナ禍で大打撃を受けたライブハウスの現状を平野にインタビューするなど面識があり、「平野さんから聞いていた話もけっこうあったんですけど、字面にするとやっぱり凄い」と本書の感想をまず述べ、「平野さんの勢いがめちゃくちゃなのが面白い。そもそもロフトの創業が71年で、西荻窪ロフトのオープンが73年、荻窪ロフトが74年、下北沢ロフトが75年、そして新宿ロフトが76年。毎年一軒のペースって、常識人だったらやらないですよね?」と訊く。これに対し平野は「次々と店を作ったのは日本のロックが進化するスピードが凄く早かったから。日本中から東京へどんどん新しいバンドが来て、客なんかほとんど入らなくて売上は全然なかったけど、自分でイベントを仕掛けるのが凄く楽しかった」と満席の客席を前に嬉しそうに語る。 ロフトの功績の一つは、あの山下達郎もシュガー・ベイブ時代に恩恵に預かり、後年「画期的な発想」と賛辞を送ったチャージバック制を生み出したこと。店の経営を維持すべく平野が考案し、その日の来場者のチャージ料をすべてミュージシャンに渡すという、今では全国のライブハウスに定着したシステムだ。坂本龍一、頭脳警察、友部正人、浜田省吾、森田童子…と、今でこそ誰もが知る著名ミュージシャンがロフトに出演していたものの、50年前はまだ知る人ぞ知る存在。やれば赤字になるだけのライブを継続するために、ライブ開催は基本的に週末と祭日だけにした。チャージは演者に全額渡し、ライブハウスは飲食で稼ぐ。昼間はロック喫茶、夜はライブ、その後、朝までロック居酒屋をやる。「大変だったけど、それでこそライブを続けられた。演者との、客とのフェイス・トゥ・フェイスというライブの場を大切にしたかった。客が3、4人でもいいから、ライブをやめたくない一心だった」という平野の言葉にロフトの原点がある。