現職の“裁判官”が語る…「法律と判例」があっても“生成AI”には裁判官が絶対に務まらない「決定的な理由」とは
裁判官の「良心」とは何か
それでは、裁判官の「良心」とは何か。 憲法76条3項の裁判官の「良心」という文言については、憲法学者の間でも長年論争が繰り広げられています。百家争鳴という感じですが、大雑把に分ければ、「主観的良心説」と「客観的良心説」の対立があります。 ところで、憲法にはもう一か所「良心」という文言があるのはご存知でしょうか。憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という規定です。 この条文でいう「良心」が、個々人それぞれの主観的なものであることは争いがありません。どこかの国のように、権力者が国民の心はこうあるべきだと勝手に決めて、押し付けた「良心」を指すものではないことが明らかです。 ところが、憲法76条3項の裁判官の「良心」については、なぜかこれと異なって、「客観的な良心」であると解釈するのが長年の多数説でした。その根拠としては、たとえば、「死刑廃止論者の裁判官が自己の良心に従って死刑判決を回避するのはおかしい」という例がよく挙げられました。 しかし、よくよく考えてみると、これは違うと思います。現に刑法に規定のある死刑を事案によっては適用しなければならないこと自体は、この「法律に拘束される」の方に含まれています。基本的に個々の裁判官の良心の範疇(はんちゅう)ではありません。 上述の「死刑廃止論者の裁判官」について言えば、むしろ、不運にも死刑事案を担当することになったら、次のように悩めばよいのです。 ①自分としては、死刑をなるべく避けたいが、法律に基づいてその判断を正当化できるか。確かに刑法では複数の殺人や強盗殺人であっても無期懲役を選択することはできるけれど、これだけ凶悪な事件では死刑を選択すべきだという最高裁判例もあるから、なかなか通りそうにない。 ②それならば、死刑を規定している現行刑法の規定を憲法違反とまでいえるか検討するか。過去に死刑を合憲とした最高裁判例はあるが、死刑廃止はもはや国際的な潮流だ。そろそろ判例変更を考えてもいいのではないか。 ③しかし、死刑廃止論は日本ではまだまだ少数派だ。時期尚早ではないか。選択が迫られる。 こうして悩んだ上で、結論と理由を決めればよいのです。 2023年のNHK大河ドラマは私の故郷の愛知県三河地方が生んだ英雄を描いた「どうする家康」でしたが、徳川家康が毎回、重大な局面で選択を迫られるというストーリーで展開していました。 死刑廃止論者の裁判官も同様に、このような感じで選択に悩むことになります。 そのような究極の事案は、民事裁判官である私が担当することはありません。しかし、少なからぬ民事事件では、どちらの結論でも判決が書けるということがあります。 その際に働かせる私の「良心」がどのようなものか、この機会に披露させていただきます。なお、ここでいう「良心」とは、「思想及び良心の自由」にいう「思想」とは一応区別されるものであって、「良識」、「道徳・倫理」、あるいは「信条」というべきものです。 私の良心は、第一に「正直」、第二に「誠実」、第三に「勤勉」です。いわゆるサイコパス、つまり「良心をもたない人」、あるいは「こまった人」ではなく、「まともな人」であれば、順番はともかくとして項目にはおおむね賛同してもらえると思います。なぜならば、「良心」とはまさに、「普通の人の良い心」だからです。
竹内浩史(裁判官)