意外と気づかない、裕福な家庭と低所得家庭の「体験格差」は何が問題なのかという「重大な論点」
習い事や家族旅行は贅沢?子どもたちから何が奪われているのか? 低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」、人気の水泳と音楽で生じる格差、近所のお祭りにすら格差がある……いまの日本社会にはどのような「体験格差」の現実があり、解消するために何ができるのか。 【写真】子ども時代に「ディズニーランド」に行ったかどうか「意外すぎる格差」 発売たちまち6刷が決まった話題書『体験格差』では、日本初の全国調査からこの社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態に迫る。 *本記事は今井悠介『体験格差』から抜粋・再編集したものです。 第一部では、全国2000人以上の小学生の子どもをもつ保護者を対象に実施した調査の結果をもとにしながら、日本における子どもの「体験格差」の実態を描く。以下のような問いを立てながら、現状を見ていこう。 ・親の経済状況と子どもの体験にはどのような関係があるか【「お金」と体験格差】 ・スポーツや文化芸術など、主に放課後に行われる習い事やクラブ活動ではどのような格差が生じているか【「放課後」の体験格差】 ・自然体験や旅行など、主に週末や長期休みに行われるレジャーや活動ではどのような格差が生じているか【「休日」の体験格差】 ・都市部と地方とでは、子どもの体験の状況にどんな違いがあるか【「地域」と体験格差】 ・親の子ども時代の体験のあり方と、その子どもの体験のあり方には、どんな関係があるか【「親」の体験格差】
「体験」がなぜ重要なのか
そもそもの前提として、なぜ「体験」が子どもたちにとって重要なのだろうか。言い換えれば、「体験」にはどんな価値があるのだろうか。 まず、「体験」は往々にして楽しいものだ。海は楽しい。動物園は楽しい。サッカーは楽しい。絵を描くのは楽しい。旅行に行くのも楽しい。 もちろん、プールで泳ぐのが楽しくない子どもはいるし、ピアノの練習が楽しくない子どももいる。すべての「体験」が、すべての子どもにとって楽しく感じられるわけではない。だが、それぞれの子どもにとって楽しいと感じられる「体験」が、一つはきっと存在するだろう。 さらに、「体験」の価値はその時々の楽しさだけではない。例えば、「体験」は子どもの社会情動的スキル(非認知能力)にも関係するとされている。つまり、子どもたちへの短期的な影響(楽しさ)だけでなく、かれらの将来に対する長期的な影響もある。 だからこそ、その格差を放置しておけないわけだ。たまたま裕福な家庭に生まれた子どもたちばかりが様々な「体験」の機会を得られ、それによって大人になってからの収入などの格差が再生産されているとすれば、とてもフェアな社会とは言えないだろう。 沖縄県で長く子ども・若者の貧困問題に取り組み、不登校状態の子どもたちを支援している金城隆一さん(NPO法人ちゅらゆい代表理事)は、様々な困難を抱える子どもたちを連れて北海道へ旅行に行ったときのことを次のように語る。 子どもたちにとって初めての旅行でした。でも、子どもたちは北海道の現地に着いても、沖縄の地元にあるようなアニメショップやゲームセンターなど、普段の生活とまったく同じことをやりたがる。食べ物も全国チェーンの寿司屋に行きたいと言う。これまで色んなことを体験したことがないから、「北海道に来たらこれをやってみたい」とか、そういう選択肢がそもそも頭に思い浮かばない。貧困とは「選択肢がない」ということです。私は、子どもの貧困問題の中心にあるのが、体験格差だと思っています。 何かを一度もやったことがなければ、それが好きか嫌いかもわからない。何かを一度も食べたことがなければ、それが好きか嫌いかもわからない。どこかに一度も行ったことがなければ、その場所が好きか嫌いかもわからない。 子どもたちにとっての想像力の幅、人間にとっての選択肢の幅は、大なり小なり過去の「体験」の影響を受けている。貧困状態にある子どもたちは、「過去にやってみたことがあること」の幅が狭くなりがちだ。そして、そのために「将来にやってみたいと思うこと」の幅も狭まってしまいがちなのだ。 体験格差とは、今を生きる子どもたちにとっての楽しさや充実感の問題でもあり、将来の人生の広がりに関わるより長期的な問題でもある。そのどちらも極めて重要だ。そうであるにもかかわらず、子どもたちの「生まれ」によって「体験」の機会に格差があることは、この社会ではあたかも仕方がないことのように捉えられてきてしまったのではないか。
今井 悠介(公益社団法人チャンス・フォー・チルドレン代表理事)