13代将軍・徳川家定は賢明か暗愚か!? 激動の時代に突入した日本のリーダーに求められた資質とは
NHKドラマ「大奥」幕末編では、13代将軍・徳川家定と老中・阿部正弘の単なる主従関係を超えた絆が描かれた。黒船の来航騒ぎに日本が揺れるなか将軍位に就いた家定だが、じつは長らく「暗愚の将軍」としてそれほど高く評価されていなかった。果たして、実際のところはどうだったのだろうか。 ■「無能の癇癪持ち」という長年の評価の真偽は……? 江戸時代の最終段階に登場した3人の将軍(家定、家茂、慶喜)に共通するものとは何か。それは、ペリー来航をきっかけに、各段に強まった日本に「開国」を迫る圧力を受けて、リーダーシップを発揮しうる「政治君主」たることが求められたことである。 それまでの将軍は、江戸城の奥深くにいて、自らが先頭に立って国政を担当する「政治君主」でなくてもよかった。すべてを老中任せでやれたのだ。ところが、ペリー来航後に第13代将軍の座に就いた家定には、それが許されなかった。 家定の実父であった12代将軍・家慶は、父家斉の55人と比べると少ないが、家定を含め14男13女の子供をもうけた。が、皮肉なことに、これだけの子沢山でありながら、20歳以上まで生きたのは家定だけであった。そのため、ペリー来航騒動のさなか、嘉永6年6月22日に家慶が息を引き取ると、病弱で癇癪持ちだった家定が跡を継ぐことになった。 家定の兄弟姉妹が早死にしたのには、恐らく誕生したからずっと鉛で作られた白粉の付着した乳を飲んで育った(すなわち鉛毒におかされた)ことが大きく関わったであろう。また、あまりにも大事に育てられ、燦燦と降り注ぐ太陽の下、自由に動き回るような生活とは無縁だったことも、大きく影響したと思われる。 それはさておき、「暗愚の君」だったと昔から言われ続けてきた家定だが、これは実態とかなり異なる。側に控えていた関係者の証言等によると、普段は温和で、存外聡明で思いやり深い人物だったらしい。 ただ、障害を抱え、かつ幼少期に重い疱瘡(ほうそう)にかかったため、その後遺症として顔面に痘痕(あばた)が残り、自身のルックスに自信が持てなかったらしい。そしてこのことが、すこぶる美男であった一橋慶喜に対して、好意的な感情を持てない一因となったようである。さらに、父の家慶が幼い慶喜をとにかく可愛がったことへの反発が多少関係していたとも考えられている。 なお、不思議なことに島津家から御台所(みだいどころ)として迎えた篤姫との関係については、ほとんどエピソードらしいものが伝わっていない。そうしたなかにあって、篤姫が終始慶喜に対して好意的なそぶりを見せなかったのは、慶喜嫌いの夫である家定の影響があった可能性が高く、興味深いところである。 家定は病弱で障害を抱えていたものの、平穏な時代であったなら優秀な将軍とまではいかなくても、まずは合格点を与えられる将軍として生きられたと思われる。しかし、父家慶の晩年から、激動の時代に突入したことが、家定の運命を大きく変えてしまった。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部