江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか、「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した
幕府の公文書を運んだ飛脚を「継飛脚」といい、2人1組で、1人は「御用」と書いた高張提灯を掲げ、もう1人が文書を入れた籠を担いだ。 庶民の手紙などの書類や金銭、小荷物などの運輸も飛脚が担うようになった。所要時間や荷物の重さにより料金が違った。江戸市中の通信を請け負った町飛脚も登場した。 飛脚とともに江戸の町を走り回ったのは駕籠。当初、庶民が乗ることは禁じられていたが、しばらくして四つ手駕籠という簡素な町駕籠が出現した。現代の価格で日本橋から吉原大門までの約5㎞分が約3万7500円というかなりの高額であったが、駕籠で乗りつけるのが江戸っ子の見栄だったのだ。
現代では医者は高収入の代表で、平均年収は1000万円を超えるが、江戸ではどうだったのだろう。今のような医師資格はなく、法律上は誰でも医者になることができたというから、収入もさまざまだ。 幕府や藩に仕える医者と、町医に大別でき、さらに町医には町奉行から駕籠を使用する許可を得た乗物医者と、お供に薬箱を持たせて歩く徒歩医者がいた。 医者によって薬礼(治療や投薬に対して医者に払う代金)も違った。『江戸真砂六十帖』によると寛延年間には1両で300服相当、天保年間では120服相当だ。
また、髪結いを専門とする床屋は3代将軍・家光の頃に誕生した。多くは湯上がり客を狙って、湯屋の近くに開業したが、開店費用は現代に換算して5000万円近くもした。客の頭(月代)を剃り、髷を結い直し、眉の手入れや耳掃除などをして相場は32文、約2400円。月収約60万円という高額所得者だった。 江戸時代の商人は、特定の店を構えないで商品を売り歩く行商人が多かった。なかでも天秤棒をかついで売り歩く棒手振りは、江戸庶民の生活になくてはならない存在だった。野菜や魚、豆腐、漬物といった食品を毎日売り歩き、人々はその日食べる分だけを購入した。針や糊など日用品の販売や錠前直し、鏡磨きなどのサービス業を行う者もいた。