「外は黒煙で真っ暗。ああ、私はきょうで死ぬんだなと思った」50年前の事故 ひな祭りの最中、不発弾爆発【土中の戦争 聖マタイ園 不発弾事故50年(上)】
【土中の戦争 聖マタイ園 不発弾事故50年(上)】 春の日差しが差し込む聖マタイ幼稚園(当時那覇市小禄)で1974年3月2日、ひな祭り会が開かれていた。保護者が見つめる中、園児約170人が童謡を元気よく合唱していた午前11時20分、「ドーン」とすぐそばで地鳴りのような音がとどろいた。 【写真】聖マタイ幼稚園での不発弾の爆発事故で、負傷者の応急処置に負われる看護スタッフ 園児だった娘の歌う姿を見つめていた城間トシ子さん(83)=那覇市=が窓の外を見ると、巨大な黒煙が園舎を飲み込もうとしていた。園構内の下水道工事で打ち込んだ矢板(シートパイル)が不発弾に当たり、爆発したのだった。 園庭にいた3歳の女児や建設作業員ら計4人が死亡、34人が重軽傷を負った日本復帰後最大の不発弾爆発事故。トシ子さんは「外は黒煙で真っ暗。ああ、私はきょうで死ぬんだなと思った」と振り返る。 爆発したのは、沖縄戦直前に日本軍が敷設した対戦艦用の機雷だった。その威力はすさまじく、爆風は半径200メートル以上に広がり、家屋80棟、車41台が全半壊した。重さ600キロあるパイルが現場から50メートル先を走行中のライトバンに突き刺さり、運転手は即死した。 それまで遊んでいた子どもたちの声が消えた園庭。爆発で吹き上がり、空から降り注いで積もった土の中に、何人もの幼児が埋もれていた。鬼本照男園長(故人)やひな祭りを参観していた保護者が必死になって土を掘り返したが、園に遊びに来ていた3歳の女児はすでに息絶えていた。わが子を捜し回り、「子どもがいない」と泣き叫ぶ母親の声が響いた。 沖縄戦終結から29年。まるで戦場が再現されたかのような光景に衝撃を受けたためか、トシ子さんの記憶は断片的だ。「爆発のあった方向とは反対側の部屋に、一斉に避難したと思う。あの日から大きな物音に恐怖を感じるようになった」 ■曲がる重機、響き渡る叫び声 目撃した宮国さん「忘れることができない記憶」 1974年3月2日、那覇市立宇栄原小学校5年生だったジャーナリストの宮国忠広さん(61)=豊見城市=は、聖マタイ幼稚園から約300メートル離れた所を歩いていた。午前11時20分、「ドーン」という爆発音が聞こえ、地響きで体が揺れた。数秒後に突風が吹き、砂ぼこりが目に入った。それが爆風だった。 幼稚園に駆け付けると、重機のアームがぐにゃりと曲がっているのが目に入った。下水管から飛び散った汚泥が周囲に異臭を放ち、園庭では「人が埋まっている」という叫び声が響き渡った。 宮国さんには別の園に通う6歳下の妹がおり、なぜか彼女が埋もれているような気がした。消防や警察は到着していない。大人に交じって土砂をかき出していると、「子どもは近寄るな」と怒声が飛んできた。 帰宅すると妹は当然無事で、思わず頭をなでた。「冷静になれば妹が事故現場にいるはずないと分かるが、あの日はとにかく不安で仕方がなかった」 大学卒業後、宮古毎日新聞社に入社し、県政記者として知事室に出入りしていた96年、大田昌秀知事から声がかかった。知事が力を入れていたのは、2015年までに全ての米軍基地を撤去する「基地返還アクションプログラム」。返還に伴う基地従業員の雇用や環境問題に対応するため、民間シンクタンクを手伝ってほしいと誘われた。業務には不発弾の調査も含まれていた。 新聞社を辞め、主任研究員として不発弾調査を開始。公共工事の予定地に戦前住んでいた住民を探し出し、「爆弾が落ちたか覚えていないか」と尋ねて回った。かつて田んぼ、沼地だった所は不発弾が潜むリスクが高く、地図上に赤印を付けて磁気探査業者に渡した。 7年間シンクタンクで働き、古巣で記者を再開すると元ひめゆり学徒隊への聞き取りをまとめた。米兵暴行事件があった1995年以降は聖マタイ幼稚園で開かれる追悼式に毎年参列し、記事も執筆した。 聖マタイ幼稚園は爆発事故から15年後の89年、豊見城市に移転。跡地には小禄病院が建ち、敷地の一角には慰霊碑がある。 50年前のあの日、「沖縄戦は終わったのに大変な地域に住んでいる」と痛感した。その時は「大変さ」が何に起因するかは分からずにいた。 今、慰霊碑の前で宮国さんは「不発弾事故をきっかけに、戦後沖縄のあらゆる悲劇は沖縄戦に通じると思うようになった。だから僕にとって3月2日は忘れることができない記憶」と語る。3月1日に同園で執り行われる追悼式にも出席し、50年前の惨劇と向き合うつもりだ。 ◇ ◇ 4人が犠牲となった聖マタイ幼稚園での不発弾爆発事故から、3月2日で50年がたつ。県の推計では1878トンの不発弾が今なお埋没している。事故に遭遇した人の証言や不発弾処理の現場から、土中に残る沖縄戦の「負の遺産」について考える。(社会部・城間陽介)