政治の「右派と左派」、実は権威に弱い人と強い人の違いだった納得の理由
これと同様の現象は、ドイツやフランス、イギリスの選挙でも見られる。これらの国々では、急進的な政党もあるが、政権を担いうる政党はいずれも、ポリティカル・コンパスで見ると権威主義的右派に位置づけられる。これはつまり、計画経済を理念とする社会主義の思想や、反権威を理念とするリベラルの思想は、ともに退潮してきたということだろう。20世紀から21世紀にかけて、経済は自由経済、政治は反リベラルという傾向が強まり、大半の政権が権威主義的な右派の範囲に収まるようになってきた。 といっても、やはり政治は右と左に分かれる。例えば経済問題においては、たんに「大きな政府」か「小さな政府」かが争われるのではなく、税金で集めたお金を、次世代のために投資するのか、それとも現役世代の弱者を支援するのか、といった問題が争われるだろう。 また政治問題においては、例えば天皇制を認めるか否かがたんに争われるのではなく、皇位継承のあり方として、男女を差別しない仕組みを築くのか否か、といった問題が争われるだろう。このように、政治の領域では微妙な対立点をめぐって争うとはいえ、右と左に分かれて争うことには意味がある。 ● 権威に対して 私たちはどう生きる? 以上のポリティカル・コンパスは、政治の問題だけでなく、私たちが人生をいかに生きるべきかという問題にも応用できる。私たちの社会には、権威というものがある。権威に対して、私たちはどのような態度をとって生きるべきなのか。 大まかに言えば、権威を批判するのが「リベラル(反権威)」であり、権威を擁護するのが「保守(権威)」である。けれども、リベラルと保守にはさまざまな立場がある。場合によっては、リベラル内部の対立点、保守内部での対立点のほうが、これら2つの立場の対立点よりも大きいことがある。
リベラルな生き方とは、次のようなさまざまな実践である。 ●権威を担いながらも、その影響力を批判的にチェックする。 ●権威を担わず、第三者的な立場からチェックする。 ●権威に抑圧された立場(マイノリティ)から、権威を批判する。 ●権威も反権威も批判して、俗世間から撤退する(老荘思想)。 ●現在の権威を否定し、政権交代を通じて新たな権威を打ち立てる(変革主体)。 5つのこの実践は、権威に対して批判的なスタンスをとるという点では一致しているが、共通点はあまりない。現在の権威を担いながら批判するのか、それとも現在の権威を否定するのか、あるいは新たな権威を打ち立てるのか。こうした問題をめぐって、リベラルのあいだで意見の対立が生まれるだろう。 これに対して保守的な生き方とは、次のようなさまざまな実践である。 ●批判から権威を守り、役職に就いてこれを担う。 ●権威に対して従順に従うほうが楽である。 ●権威ある人に承認されるような生き方をする。 ●古き善き国のかたちを守るために献身したい(ナショナリスト)。 ●支配的な権威と同一化して、批判者たちを批判する(冷笑主義者)。 以上の実践は、権威を支えようとする点では一致しているが、共通点はあまりない。保守の内部にもさまざまな立場がある。 リベラルも保守も、多様な立場を含んだイデオロギーである。そこで問題になるのは、「どんなリベラルか」、「どんな保守か」ということである。これは、私たちの生き方の問題とも結びついている。私たちは権威に対して、どのような態度をとって生きるのか。権威を完全に否定するのか、あるいは肯定するのか。どちらでもないとすれば、私たちはその中間で、権威とどのように向き合うのか。人生とはある意味で、権威との闘いである。権威を握ったときに、あるいは権威に押しつぶされそうになったときに、その権威に対してどのような態度をとるのか。そうしたことも、私たちは問われているように思われる。
橋本 努