コンプレックスを乗り越えた「クセメン俳優・坂口涼太郎」は、なぜワンシーンでも記憶に残るのか
転機となった初舞台
スタジオモダンミリイは、神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅と石屋川駅の間の高架下にある。上を電車が通過するとガタンガタンと音がするダンス教室に、坂口が初めて訪れたのは中2のときだった。 「学校が終わると電車を乗り継いで、1時間くらいかけて行ってました。結構遠かったんですよね。帰りが遅くなると、父が車で迎えに来てくれたりしました」 ジャズダンスから習い始めたが、「ミュージカルに出たい」と公言していた坂口はタップやバレエなどさまざまなダンスのレッスンも受けるようになる。 しかし高校入学のタイミングで父の仕事の都合で神奈川県への転居が決まり、モダンミリイへ通えたのは1年ほどだったという。 それでも縁は続き、高2のときに「ダンス公演のオーディションを受けませんか」という手紙を受け取る。 「中3のときにモダンミリイのダンス公演の手伝いをしたんですけど、僕は裏方で……羨ましかったんですよね。本当は向こうのスポットライトが当たるほうに行きたい、と思いながら舞台の袖ですごく踊ってたら、怒られました」 結果は合格。坂口は高2の夏休みに1人神戸へ行き、ホテルや森山家に居候しながら、『戦争ワンダー』という公演の稽古と本番に全力を尽くした。その姿を見ていたのが、森山未來の友人で、同じ公演に出演していた俳優の八十田勇一だった。 「未來くんから出てほしいと言われたんですけど、僕は踊れないよと返事をしたら『言葉のダンスをしてほしい』と言われて。この公演はダンスで表現するステージだったのでセリフがなかったんですけど、僕のところだけ未來くんとダンサーとトリオ漫才をやるという演出だったんです」 坂口の演じた役はスズメで、おじいさんにいじめられるシーンがあった。 「涼太郎はコミカルな部分を任されてたんですけど、そのダンスを見てたらね、なんかスズメがすごくしゃべりたそうだったんですよ(笑)。だから楽屋で『何かセリフ言ったらいいのに』とすすめたんですけど、演出上しゃべることは許されないというので、『じゃあおまえ、役者になれば?』と。役者になればダンスもできるし、セリフも言えるよって」 舞台に立つ人になりたいと思っていた坂口にとって、初めて俳優という選択肢が生まれた瞬間だった。 「僕のダンスがすごく演じてる踊りだったらしくて。もし八十田先輩との出会いがなかったら、役者は全然考えもしなかったですね」 初舞台を無事に務め上げた坂口は、母の友人でがん闘病中の方から「延命治療をやめようかと思っていたけど、舞台を見て、もうちょっと生きてみようと思ったので続けることにした」と言われたという。 「治療することがいいのか悪いのかは自分にはわからないけど、自分のやってることで人の気持ちを動かせたのってすごいな、やってよかったと思って、決意が固まりました。生きるとか死ぬとかに直結するくらい人の気持ちが動くんだと思ったら並大抵の決意じゃいけないし、全力を尽くさないと失礼になる。そういう仕事に対する向き合い方というのは初舞台のときに教わって、今も大事にしています」