尊富士が成し遂げた110年ぶりの新入幕優勝の裏側 負傷を抱えながら千秋楽出場を決めたワケ
【横綱の励ましで千秋楽出場を決意】 ――勝てば優勝が決まる14日目の朝乃山関との取組では惜敗。何か見えた課題はありましたか。 尊富士 相手は大関経験者。簡単には勝たせてもらえません。負けパターンをもっと考えておけばよかったと思いました。相手の得意の右四つになったら勝てないのに組んでしまい、組んだ瞬間に「ああ、強いな」と思ってしまったんです。 ――関取の持ち味は立ち合いのスピード。そこを生かしたいという狙いでしょうか。 尊富士 はい。幕内力士はみんな力があります。でも、自分はスピードなら勝負できる。相手の体重がかかる前に、スピードで攻める意識をしています。 ――この一番で、右足首にケガを負いました。どんな状況だったのでしょうか。取組後には車椅子で搬送されるほどでした。 尊富士 相手を押している最中の3歩目くらいでひねりました。そして切り返そうと思ったときにもう1回ひねってしまった。負けたあとは「無」の心境というか、感情がない状態でした。大丈夫かなって、見ていた周りの人も思ったと思いますけど、僕が一番不安でした。めちゃくちゃ痛くて足はつけないし、今場所はもう出られないかなと......。優勝は意識していなかったけど、ここまできて土俵に上がれなかったら意味がないなと思いました。 ――翌日の千秋楽に出場するか否かの判断は、どう決めましたか。 尊富士 師匠は「取れないだろ」と言い、僕も「明日はすみません、相撲は取れません」と伝えていました。でも、病院から帰ってきたら、横綱が励ましてくれたんです。優勝させたいという気持ちもあったと思いますが、「こういうチャンスはなかなかない。負けたっていいから、挑戦したらこの先もっと強くなる」、「何をして勝っても負けても、もし批判がきても、それは一瞬だけ。自分の人生なんだから、自分がどうしたいかが一番大事だ」と言われました。それを聞いて、もう恥をかいてもいいっていう気持ちで、千秋楽の取組に向かおうと決心しました。勝ち負けではなく、自分の後悔のないように出ようと。最後はもう気力だけでした。 ――そうだったんですね。千秋楽を迎え、どんな心境でしたか。 尊富士 まず、足は前日よりも痛かったです。不安はありましたが、師匠がテレビの解説だったので、下手な相撲を取れないなと思いました。最終的には師匠に「おまえが出ると言うなら」と言って送り出していただいたので、そんな師匠に恥をかかせることはできない。下手なことをしたら、出させた師匠が悪いとなってしまうので、自分なりに真っすぐ向かっていこう、向かっていって負けたら仕方ないと思って臨みました。 ――千秋楽、豪ノ山に勝ち、自らの手で優勝を決めました。 尊富士 はい、でも、無我夢中で覚えていないんです。勝ったあとも、シーンって耳鳴りがする感じで、周りの音がずっと聞こえませんでした。 ――ものすごい歓声でしたが、いつわれに返ったというか、周りの音が耳に入ってきたのですか。 尊富士 いや、ずっと聞こえていなかったですね。 ――相当な極限の状態にいたんですね。優勝したことに対して、率直な感想は。 尊富士 その時はうれしかったですが、それよりも周りが喜んでくれることが一番でした。優勝は、今後きっと何度でも幸せなことだと思うので、特に何か感じるというものはありません。そもそも優勝したあと、ケガで巡業に出られず、人と話すことも多くなかったので、浮かれるような機会もなかったです。周りが喜んでくれてよかったけど、自分には次もありますから。 (つづく) 【Profile】尊富士(たけるふじ)/1999年4月9日生まれ、青森県五所川原市出身。本名・石岡弥輝也。木造中(青森)―鳥取城北高(鳥取)―日本大。幼少期から相撲を始め、わんぱく相撲全国大会など、各世代の全国トップレベルで活躍。大学卒業後、2022年8月に大相撲入りを表明し、秋(9月)場所に前相撲から初土俵。その後場所ごとに順調に白星を重ね、2024年初(1月)場所から十両に昇進し優勝。新入幕を果たした春(3月)場所では、新入幕の力士として最多となる初日から11連勝、110年ぶりの幕内優勝を果たした。
飯塚さき⚫︎取材・文 text by IIzuka Saki