『ブギウギ』に内藤剛志と“刑事ドラマ”が必要だった理由 エンタメの裏側にある大切なもの
『ブギウギ』はスターを神様に思えない人もいることに気づかせてくれる
復興に向かっているところもあれば、いまだに先が見えないところもあり、歌に救われる人もいれば、歌に傷つく人もいるかもしれない。すべてがひとくくりにできない。 だが、羽鳥が「しょせんは余裕のある人間が作って余裕のある人間たちが楽しんでいるだけじゃないか、そんなふうに思ってしまうことが僕にもあるんだ」と言うように、「そんなことを四六時中考えていたら頭がどうかなってしまう」だろう。「僕程度の作曲家はねちょっとでもお客の暇つぶしになればいいなんて思うこともあるよ」などと、どこかで折り合いをつけるしかないのだ、きっと。 芸能や芸術が不要不急とされる所以は、誰もが等しくできるものではなく、ある程度、物理的にも精神的にも余裕のある人でないと携わることが難しいからだ。貧しい人が成り上がるきっかけにもなるが、実家が太い人のほうが関わりやすいことは確かなのである。実際、スズ子も梅丸歌劇団に入る収入が実家から捻出してもらえたからいまがあるのだ。 『ブギウギ』は、スターを神様に思えない人もいることに気づかせてくれる。あるスターが好きな人にはその人は何にも代えがたく、神様のようにすばらしく、雑誌の切り抜きだって手袋をして扱いたいくらいであったとしても、それをポイッと捨ててしまえる人だって世の中にはいる。それを認識したうえで、大事にしている人の気持ちも尊重したいし、興味のない人にも大切にすることを強いてもいけない。娘のことであたふたジタバタして、ちっとも最適解をみつけられないスズ子の描き方を見ていると、そんなことを考える。 スターのみならず、警察も神格化されなかった。誘拐未遂事件の捜査に当たった高橋(内藤剛志)は、他局の警察ドラマのイメージをそのまま持ち込んだ人情派で、とても頼りがいのある人物に見えた。だが彼は、事件が終わったあと、スズ子にサインを警察手帳にねだるのだ。捜査中にはファンであることをおくびにも出さないのは良かったが、警察手帳にサインを求めるのはいかがなものかと真面目に首を捻ってしまう視聴者も少なくないだろう。でもきっと、正義と思われる刑事だって職権乱用してしまう瞬間があるのだろう。そう思うと、ちょっと愉快な場面であった。 内藤剛志の起用がすばらしいと思ったのは、一を愛子に会わせに行き、「また連れてきて」と一に頼まれたとき「ダメだ」と言ってすぐ「今度はお父さんに連れてきてもらえ」と言ったときだ。「ダメだ」のあとに逆のことを言ってホッとさせる話法だが、へんに間を空けずず、すぐ次のセリフを言っている。そこにやさしさを感じた。作劇上の小さな緩急は、からかわれているような気にもなることがあるし、意外と観ているほうのストレスになるものなのだ。内藤剛志が人情もので愛される理由は、狙わず、当たり前の芝居をしているからではないだろうか。
木俣冬