「紫式部の名前が不明」なのは「ストーカー対策」だった? 女系図で分かる意外な血縁関係
紫式部という呼び名が表す力
実は、『源氏物語』の作者の紫式部は、この高藤や、先に名を挙げた藤原範子・兼子姉妹とは無縁ではない。 系図1を見てほしい。高藤は紫式部の先祖であり、範子・兼子姉妹は子孫である。 紫式部の先祖は上流に属し、彼女の子孫もまた上流に属していた。それどころか、今上天皇にまで達していることが、女系図をたどると分かる。 紫式部の父や夫の代では受領階級に落ちぶれていた彼らの子孫が、いかにして上流に達する子孫を輩出したのか。 そこには「女の力」が働いていた。 紫式部自身、子孫繁栄の大きなきっかけとなった人で、その影響力は「紫式部」という呼び名に表れている。 というのも、女房の呼び名は和泉式部、赤染衛門のように、自身の姓や、夫や父の任国や官名を組み合わせてつけられることが多い。 だが紫式部は例外だ。彼女がもとは、他の女房同様、藤原氏という自身の姓と、父為時のかつての官職、式部丞(しきぶのじょう)から“藤式部”と呼ばれていたことは、『栄花物語』の1011年、1012年の記事からも分かる(巻第9・巻第10)。 それが彼女の書いた『源氏物語』が有名になると、ヒロインの紫の上(若紫)から“紫式部”と呼ばれるようになる。『紫式部日記』には、藤原道長が彰子中宮の御前にあった“源氏の物語”を見て、冗談事を言って口説いてきたり、藤原公任が、 「このあたりに“わかむらさき”(若紫)はおいでですか?」 と、紫式部に声をかけていることが記されている。物語は女子供の慰み物と考えられていた当時、『源氏物語』は当代一の権力者である道長や、名高いインテリの公任にも愛読されていたのだ。 こうして貴族社会に『源氏物語』作者として名を馳せたため、『栄花物語』でも1025年時点の呼び名は“紫式部”になっている(巻第26)。 “紫式部”は、父でも息子でも夫でもなく、彼女自身の功績に基づく呼び名なのである。 *** 後編〈「光る君へ」紫式部の子孫は今の皇室へとつながっていく 女系図でみる日本史の真実〉では、系図を読み解くと驚くほど繁栄している紫式部の子孫たちについて紹介している。
デイリー新潮編集部
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