なぜ習近平は強硬路線を取るのか...背景にある「共産党の防衛本能」
中国・習近平政権の強権的な国内政策や「戦狼外交」の背景には何があるのか。中国の内政や軍事に詳しい阿南友亮氏が、「中国共産党の論理」について分析する。 ※本稿は、『Voice』(2024年2月号)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
習近平の個人独裁は、共産党内のアレルギー反応の産物
日本国内では、中国の習近平政権の強権的な国内統治と「戦狼外交」と呼ばれる強硬な外交を「自信の発露」と解釈する人が少なくない。しかし、実態はまったく逆であり、柔軟性を欠いた内政と外交は、習政権の余裕のなさに起因している。 1970年代末から今日まで続く「改革・開放」路線のもとでは、中国共産党が政治と経済に対する特権的な地位を保持したまま中国に市場経済の論理を導入することが試みられてきた(「社会主義市場経済」)。 このため、経済が発展すればするほど、共産党の高級幹部を中心とする特権的既得権益集団に富が集中し、アメリカよりも深刻な貧富の格差が出現した。 中国の場合、収入・資産の格差が権力との距離によって決まる傾向が強いため、格差拡大は政権への不満に直結し、いわゆる「官民対立」の先鋭化を招いた。 その象徴的事例が1989年の天安門事件であるが、それ以降も全国各地で民衆による集団騒乱事件(デモや暴動)が頻発し、習近平が共産党の総書記に就任した2012年頃は、そうした事件が年間20万件以上発生しているような世相だった。 そうした「官民対立」の深刻化と並行する形で、政権内部の分裂も顕在化した。 習近平に総書記の座を譲った胡錦濤(こきんとう)および胡の前任者だった江沢民(こうたくみん)はいずれも、「改革・開放」路線の「総設計士」と呼ばれた鄧小平(とうしょうへい)の意向により党の総書記および国家主席に就任した。すなわち、胡錦濤までは誰が党のトップに立つかは争う余地があまりない事柄だったのである。 ところが、ポスト胡錦濤の指導体制は、鄧というカリスマ的指導者の「神託」がないなかで決めなければならなかったため、後継者争いが激化した。 この争いは、もともと胡錦濤派が推す李克強(りこっきょう)と江沢民派の庇護を受けて出世を重ねた習近平との一騎打ちと見られていたが、そこに習と同じく太子党(高級幹部の子弟グループ)に属する薄煕来(はくきらい)も参戦したため、三つ巴の様相を呈した。 後継者をめぐって党内が3つに割れたことは、共産党の空中分解を予感させるものだった。このため、共産党内では、暴走気味の薄煕来を排除し、後継者争いで優位に立った習近平を「核心」に据えて結束を強めようとする気運が高まった。 こうして約10年間(2013~23年)、習近平のライバルだった李克強が国務院総理(党内序列三位)として習を補佐する共闘体制が続いたのだが、その間、習とその取り巻きたちは、党内の結束を重視する気運を巧妙に利用して習に多くの権限が集中する体制を整備した。 これは「改革・開放」路線で重視された集団指導体制の骨抜きと個人独裁への傾斜をもたらした。 このような習近平への権力集中を背景に、習近平派は、「改革・開放」路線のもとで慣例化した定年制(68歳定年)や任期制(1期5年で2期まで)を恣意的に運用し、李克強を引退させる一方で、68歳を過ぎた習が党の総書記と国家主席を3期目も務めるというシナリオを実現させた。 要するに、習近平の個人独裁体制は、党と社会の関係悪化ならびに党内の結束の乱れに対する共産党内のアレルギー反応、あるいは防衛本能の産物と捉えることができるのである。 このため、習の個人独裁体制は、必然的に政権に対する不満や異議申し立てに対する寛容性を失い、政権を脅かしかねない不安因子をヒステリックとも言えるほど躍起になって取り除こうとするようになった。 「反腐敗」という名目での党内不穏分子の排除、大学やマス・メディアを含む言論界に対する締めつけの大幅な強化、「反スパイ法」に依拠した密告の奨励と「疑わしき外国人」の拘束、キリスト教・イスラム教・仏教などの宗教界へのさらなる干渉、新疆ウイグル自治区のウイグル民族に対する「ジェノサイド」とも呼ばれるような容赦なき抑圧、そして、露骨な政治介入による香港における民主化の阻止ならびに言論の弾圧などがその代表例と言える。