『春になったら』奈緒と木梨憲武が紡ぐ日々の尊さ 大切な誰かを思うすべての人へ
『春になったら』で重要なパートを占める出産シーン
『春になったら』で重要なパートを占めるのが出産シーンだ。冒頭のホームビデオは、瞳が生まれた時のものだが、瞳が働く助産院では生命の誕生の瞬間に立ち会うことになる。生きることへの明確な志向と軌を一にするように、瞳も雅彦も残された時間を懸命に生きる。互いを思い合うがゆえの父娘のいさかいは、悲壮感よりむしろ親子の絆の強さを感じさせる。病気や死は人生の一大事だが、それを悲劇としてだけでなく、誰もが通らなくてはならない現実と理解した上で、目の前の一瞬に光を当てる姿勢が垣間見えた。 演技的な自然さが動作のすみずみに行きわたっている奈緒と、持ち前のユーモアや愛嬌を封印し、明るくて実直な父親に徹する木梨の演じる親子は、想像以上に観ている私たちの目や耳、感覚になじんで、フィクションではなく現実から抜け出てきたような実在感を感じさせる。油断すると涙腺がゆるみそうになるのは、ドラマ的な仕掛けと世界観が浸透している証拠だ。 去り行く父は娘に何を残せるだろうかと自問し、娘はどんな形でも父に生きていてほしいと願う。親を亡くした人、病気の家族がいる人、結婚を考えている人や子育て中の人。ライフステージによってそれぞれ響く箇所は違うけれど、春を待ちながら限られた命をいとおしむことに変わりはない。大切な誰かを思い、かけがえのない日々をともに歩む3カ月になりそうだ。
石河コウヘイ