「42」がMLB全球団の永久欠番であるべきなのか…「ジャッキー・ロビンソン・デー」に思う
今年も現地4月15日(日本時間16日)、「ジャッキー・ロビンソン・デー」として、米大リーグ全球団の選手、監督、コーチが背番号「42」でプレーした。ロビンソンは1947年20世紀初の黒人選手としてドジャースでデビューし、その活躍によって新人王投票をスタートさせた初代受賞者。1949年にはMVPを受賞。俊足好打の内野手として活躍しただけでなく、当時プレーしていなかった黒人をはじめとした有色人種の大きな壁を破ったことで野球界だけでなく、多くのプロスポーツからも称えられている人物だ。 その功績を称え、デビュー50周年の1997年、当時のコミッショナーだったバド・セリグ氏がセレモニーを開催し、彼がつけていた背番号「42」を、所属していたドジャースだけの永久欠番でなく全球団の永久欠番(当時42をつけていた選手はそのまま容認、ヤンキースのM・リベラ投手が有名)とした。2004年から正式に4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」として、2009年からは当日は全球団の選手、コーチ、監督が「42」をつけるようにした。 昨年11月、多摩映画祭のお誘いを受け、「The League」というニグロリーグを栄枯盛衰をまとめたドキュメンタリー映画を鑑賞する機会があった。この映画では、ニグロリーグ側からメジャーを俯瞰(ふかん)した様子がとても良く描かれていた 例えば、ロビンソンを扱った映画「42」でも描かれ、人種差別撤廃の功労者とされていたドジャースのブランチ・リッキー会長。彼は実はロビンソンやその後に続くロイ・キャンパネラやドン・ニューカムらの黒人選手をニグロリーグのチームから獲得する際に、同オーナーが所有権譲渡金を一切払わず批判されたという。一方で47年、同じように黒人選手を起用したインディアンス(現ガーディアンズ)のビル・ベック会長はラリー・ドビーらの獲得にきちんと支払ったとされている。また、19世紀で数人の黒人選手が閉め出されたのは、当時のスーパースター、キャップ・アンソンの黒人嫌いの行動からだった。 ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューは選手にとって喜ばしい出来事だった。だがその裏で、当時のニグロリーグの関係者が快く思っていなかったことも記しておきたい。ドジャースが、結局はチーム力と観客動員アップを狙うリッキー会長の思惑でロビンソンを獲得したことが、ニグロリーグ衰退の最大の理由と考えられているのだ。 個人的にはロビンソンを称えるのは素晴らしいことだと思う。ただ一つ私が気になるのは全球団永久欠番にしたことだ。実際、通算3000安打を達成しながらニカラグア大地震の救援機に同乗し墜落死したロベルト・クレメンテの関係者は、米大リーグ機構に「背番号21(クレメンテ着用)も全球団の永久欠番に」と陳情したこともあった。 永久欠番は各球団の事情で決める事だと思う。ロビンソン・デーが行われた4月15日、私は毎年この思いを強くしている。 (蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト)
報知新聞社