大正末期の"消えた純銀杯"を発見! 茨木CC設立準備組織「サースデー倶楽部」の優勝カップをゴルフ収集家が"ネット"で入手
大正末期から昭和初期、大阪の若手財界人の社交団体として発足し、茨木CC設立の準備母体となった「サースデー倶楽部」。1925年7月27日に神戸GCで第1回の倶楽部競技が行われ、42年5月14日の茨木CCでの開催まで通算18回行われている。この倶楽部の優勝杯がネットオークションに出され、収集家が入手。今回、特別に見せてもらった。
1922年12月1日、大阪最初の屋内ゴルフ練習場が梅田に誕生。指導をしたのは日本のプロゴルファー第1号、福井覚冶だった。梅田という場所柄から会員数も多くなり、やがて「広々とした青芝のコースで心ゆくまでプレーがしたい」という機運が高まる。 当時のゴルフ事情は、夏は六甲山にある神戸GC、雪が降り神戸がクローズすると鳴尾GC、舞子CCに通うしかなかった。プレーを楽しむのは大半が居留外国人で、日本人ゴルファーといえば星部行則などの銀行家たちと神戸財界の南郷三郎を中心とした舞子CCの仲間など総勢50人ほどだった。 神戸GCは砂のティーイングエリアに砂のグリーン、鳴尾GCは海岸コースでアシが茂るラフに打ち込んでしまうと、たちまちロストになってしまう。そして丘陵地の舞子CCは高低差がかなりあり石が多く、クラブが傷だらけになることから「切られ与三郎」と呼ばれていた。大阪市内から神戸の六甲、舞子、鳴尾に行くには『朝は星を戴いて出て、夕は月を踏んで帰る』(廣岡久右衛門)と不便なことから、大阪の近郊にゴルフ場を建設しようとなり、廣岡久右衛門を中心に早速候補地探しが始められた。 廣岡は、欧米滞在の4年間にゴルフに親しんでいたことからゴルフ場建設には広大な面積が必要との認識があった。そのため地価の高い阪神間を避け京阪地区の国鉄沿線、阪急宝塚線に沿った場所に限定して、加島銀行の三宅重徳茨木支店長に候補地を探すように依頼。 23年三宅重徳より「候補地が見つかった」との連絡を受け検分すると、想定していたよりも遥かに好適な地形だったことから土地買収の交渉を開始することになった。