勝手に応募されたミスコンで1位に→「退学処分」→軍神・乃木将軍が大炎上の経緯(明治のゴシップ)
容姿の美しさを競うミスコン(美人コンテスト)。明治41年(1908年)、女子学習院中等部の末弘ヒロ子は親族が勝手に応募した「世界美人コンテスト」で日本1位となるが、学習院はそれを許さず退学処分に。当時、学習院院長だった乃木希典への批判が殺到した。どんな経緯だったか、詳しく見てみよう。 ■諸葛孔明がギャルのような不美人と結婚した理由 『三国志』で有名な諸葛孔明は、黄承彦という人物から「わが娘の才知は、君にはぴったり」と勧められた女性と結婚しました。その時、孔明は「娘は不美人だが……」という黄の言葉をものともしなかったようです。 黄夫人が不美人とされた理由は色が黒く、髪が黄色いからだそうですが(金髪?)、現代の外見の基準で言えば、「ギャルと諸葛孔明は結婚したのか……?」と思えてしまうかもしれません。 しかし、君子が尊ぶべき儒学の倫理において、女性は心の美しさこそが重要で、見た目の美しさに目を惹かれ、恋をしてしまうようなことはあってはならなかったのです。日本の上流階級の間では、文明開化を迎え、明治の世になっても、こうした顔の美しさと心の美しさを同一視しない価値観が生き続けていました。 明治24年(1891年)、わが国初の美人(写真)コンテストが浅草・凌雲閣で行われました。参加女性は総勢102名でしたが、その全員が芸者だったことは特筆すべきでしょう。5万人もの観客を集めましたが、美しさを競い合うことは、良家の女性にとって、「はしたなく、下品である」という価値観は根強かったのです。 しかし、明治30年代に入ると、上流階級の価値観も次第に変容を見せ、美人で名高いマダムや令嬢の写真が、婦人雑誌のグラビアページを飾るようになります。そして、明治40年(1907年)には、日本人のお嬢様が始めて世界美人コンテストに挑戦しています。 ■親族が勝手に「ミスコン」応募で1位→学習院を退学に アメリカの大新聞・ヘラルド・トリビューン紙から依頼をうけた当時の時事新報社は、日本初の「令嬢美人コンテスト」参加者を募集し、1位に選ばれたのが女子学習院中等部3年に通う末弘ヒロ子でした(最終順位は世界6位)。 しかし、ヒロ子にとっては寝耳に水で、彼女は義兄が経営する写真館で写真を撮ってもらっただけです。義兄が勝手に応募してしまったというあたりは、某芸能事務所の書類審査を彷彿とさせますが、彼女は受賞を聞くと、嫌がって泣き叫んだそうです。 ヒロ子の悪い予感はあたりました。学習院院長はカタブツで知られるカリスマ軍人・乃木希典で、彼は美人コンテストに良家の女性がチャレンジするという、新しい風潮を許しませんでした。ヒロ子は学習院を自主退学させられています。 ■すぐに鎮火された乃木将軍の炎上 乃木よりも女子学習院部長の松本源三郎が、ヒロ子の退学を強硬に主張したからだともいわれますが、新聞『時事新報』は、明治41年(1908年)3月29日の4面から6面まで使って、学習院批判の記事を載せました。ほかに話題がないのかという話ですが、当時の新聞はほんとうにゴシップ誌のような存在だったことがわかりますね。 しかしこの年の秋には、ヒロ子が陸軍大将・野津道貫侯爵の子息・鎮之助と結婚したことを祝う記事が新聞を飾りました。ヒロ子を退学させてしまった乃木に対する批判が非常に強くなり、大炎上したので、さすがの彼も苦慮したからだともいわれます。 ただ、同年10月8日付けの『国民新聞』によると、ヒロ子の父親の末弘直方と、野津道貫侯爵は親交が深く、両家は「殆ど骨肉の如く親密」で、もともと二人は許嫁に近い関係だったようです。 要するに二人の結婚に対し、乃木将軍の影響はあったところで微々たるものだったということですが、乃木将軍のような国民的英雄は、一度は炎上して叩かれてもすぐさまそれを鎮火するような「イイ話」が作られ、巷に流布してしまうものなのですね。さすが「軍神」乃木希典、いくら炎上しようとビクともしていませんでした。
堀江宏樹