「写真で見る昭和の風景」戦後の日本、どんなバイクが街を走っていたのか【1946~1950年代中期】
戦後間もなくのモーターサイクル黎明期
外車の模倣からスタートし、外車を駆逐するまでの高性能を1970年代に獲得していった日本製モーターサイクル。だがその歩みは一朝一夕ではなく、1950年代、1960年代の一進一退と各社の切磋琢磨からなった。そんなモーターサイクル歩みを、時代背景と風俗で振り返ってみよう。 【画像17点】ツーリングは「遠乗り」と呼ばれていた!戦後から1950年代半ばの貴重なバイク風俗を写真で見る *以下、写真の説明は画像ギャラリーの順番に応じています。 ■戦後間もなく走り出したラビット/1946年 1946(昭和21)年8月から翌年12月までに538台生産されたラビットS1。135㏄SV(サイドバルブ)エンジンに遠心クラッチを組み合わせ、始動は押し掛け。モデルとして登場した写真の女優・高峰秀子の撮影料は1カット1000円。ちなみに1946年のサラリーマンの月給は500円という預金封鎖時代。S1の撮影は2カットだったが、撮影料2000円の乾板(ガラスのネガ)は貴重品のように取り扱われたという。なお、初期のラビットのタイヤは航空機の尾輪が使われていた。 ■東京・隅田川沿いの吾妻橋西詰め交差点/1950年代前半 後方の建物は、戦後間もなくのアサヒビール吾妻橋工場。現在、この交差点からの眺めは、アサヒビール本社と付帯するビアホール、左側に墨田区役所、その間に建設中(2010年当時)の東京スカイツリーが望めるポイントとして有名。交差点で交通整理する警官(停電での信号故障は日常茶飯事だった)の背後の4輪車はビュイック。アメ車は当時、日本人にとってスーパーカーだった。なお、自転車の左手にあるはずの日本最古の「神谷バー」は現在も盛業中。都電の架線、黒煙を吐く煙突が迫力だ。
浜松でのオートバイメーカーの台頭
■シャフト駆動が特徴だったライラックの工場/1950年代前半 浜松市上池上町にあった丸正自動車製造の工場内(当時)。1950年代初頭のバイクメーカーには大きな需要はなく、本格的組み立てラインは見当たらない。「チェーンのないシャフト駆動のオートバイ(当時はチェーンの折損事故が多かった)」を売りとしたライラックが、本社を東京へ移したのはホンダの東京移転から1年後の1953(昭和28)年。 同社はベビーライラックが大ヒットし、1955年の第1回浅間火山レースで250SYに乗った無名の若者・伊藤史朗が優勝して全盛期を迎えたものの、1967年に事業を完全閉鎖。 ■戦後間もなくのヤマト商会/1950年代 浜松市伝馬町のヤマト商会の店頭(当時)。本田宗一郎は、同社社長・犬飼兼三郎宅の玄関にあった旧陸軍携帯無線機の発電用小型エンジンを目にし、自転車用に改良して町中を走ったのがオートバイ造りのきっかけになった。その後市中から軍用小型エンジンのお下がりがなくなり、ホンダは第1号機=A型の生産に入った。 本田宗一郎夫人が、町中を走る際のけたたましい排気音から名付けた「ポンポン」の名は、浜松で1950年代ころまでオートバイの代名詞として通用した。 ■新風を吹かせたホンダ・カブF型/1952年 「赤いエンジンに白いタンク」で清潔感を表したF型カブのエンジンキットは定価2万5000円で、当時のサラリーマン平均月給のほぼ3ヵ月相当。卸値1万9000円で全国5万5000軒の自転車店に売り出され、1952(昭和27)年末には空前絶後の月産7000台を記録。最高出力1ps/3000rpmの2サイクル50㏄エンジンの採用は、自転車の車体にかかる負荷低減を考慮した結果だった。リヤスプロケットは5分割式で、スポークをばらすことなく取り付けられた。 ■箱根を一気にかけ登ったホンダ・ドリームE型/1952年 ホンダ製4サイクルエンジン車の第1号はドリームE型。OHV150㏄の最高出力は5.5馬力、最高時速75kmで、当時の軽二輪車(150㏄以下)で最高を誇った。鋼板を溶接したプレスチャンネルフレームは、2サイクル単気筒100㏄のドリームD型を流用。歯切り代が高いため、2段変速のE型はトップギヤで箱根の山を登り切り、その性能が高く評価された。 後に3E型で3段変速化、タンクに5本のメッキモールが入った装飾のほか、リヤはリジッドからプランジャーサスが付けられ、より売り上げを伸ばした。 ■スズキ パワーフリー/1952年 スズキ(当時は鈴木式織機株式会社)は1952(昭和27)年登場のパワーフリーで、バイク生産に本腰を入れた。当時ガソリンが統制品だったことや、人間の体力(概ね0.2馬力)から割り出し、人ひとり運ぶのに36㏄あれば十分と計算して排気量を決定。その補助エンジンを自転車の三角フレーム中央に積み、走行安定性を確保した。2段変速のエンジンパワーをフリーにした際に、Wスプロケットの1枚でペダルを軽くこげる特許「パワーフリー」を売りにし、それが車名となった。荷台右下はガソリンタンク。 ■進化したスズキ・ダイヤモンドフリー/1953年 1953(昭和28)年発売のスズキ・ダイヤモンドフリー(60㏄)は、2段変速で最高時速60kmを誇り、1953年末には月産6000台を記録した。自転車のフレームをベースに強化されたフロントフォークとブレーキ、ステップなどが造り込まれた。パワーフリーの時代には、設計者が想定しない過負荷で多くのユーザーがトラブルを起こしたが、ダイヤモンドフリーではそうした高負荷にも対応。 また同年10月には、札幌~鹿児島3000kmの縦断耐久テストを敢行。全3車が完走して耐久性をアピールした。 ■街角の紙芝居にも活躍/1950年代半ば 人ひとりを運ぶことを念頭に36㏄のパワーフリーは造られたが、設計者の予想を超えて酷使するケースが多く、エンジンの耐久性を高めたモデルがダイヤモンドフリーだった。またこれらは、紙芝居屋にも多く使われた。テレビのない時代、ふれ太鼓を鳴らし、子供たちを集めて木箱の引き出しからソースせんべいや水飴、型抜きなどを販売し、「黄金バット」など2、3話の紙芝居を見せる商売(ただ見は御法度だった)は、全国で繁盛した。