鎌倉街道見張る要衝地「四ツ山城」(前編) 山城ガールむつみの「埼玉のお城 出陣のススメ」
戦国時代の幕開けとともに華々しく歴史の舞台に登場し、長尾景春の乱の鎮圧などで関東を代表する武将としてその名を残した太田道灌は、文明18(1486)年7月26日、糟屋館(神奈川県伊勢原市)で主君扇谷上杉定正に殺されました。伝えによると、最期の言葉は「当方滅亡」だったといい、この言葉は諸説あるものの、「(自分を殺しては)扇谷上杉氏は滅亡するぞ」という意味だと考えられています。道灌の遺骸は、糟屋館ほど近くの洞昌院に運ばれ、荼毘(だび)に付されたといいます。 道灌が謀殺されると、道灌嫡子の資康は甲斐国に逃れ、父を殺した扇谷上杉定正から離反して山内上杉顕定に助けを求めました。この資康の動きを受けて、親道灌派もこぞって扇谷上杉氏から離反し、山内上杉氏につきました。これによって、両上杉氏が激突した「長享の乱」が幕を開けました。享徳の乱が終わって息をついたのもつかの間、また新たな戦乱の渦が広がっていったのです。 資康と行動を共にした中には、武蔵千葉氏や相模最大の勢力であった三浦氏もいました。特に、三浦氏が山内上杉氏に従ったことがこの時期の混乱を表しているといえます。なぜなら、三浦氏の当主道含(高救)は扇谷上杉定正の実兄にあたり、三浦家に養子に入った人物です。道灌と懇意にしていた道含は、道灌を殺した実弟定正が許せず、実家扇谷上杉家から離反したのです。このことからもいかに関東が混乱の渦中にあったかがわかります。 長享2(1488)年2月、両上杉氏は実蒔原(神奈川県伊勢原市)で激突。これを皮切りに両者は全面抗争へと突入。この後、戦線は本県へ移ります。特に、比企地方が主戦場になりました。比企地方が大きな戦いの舞台になった理由としては、山内上杉氏の本拠鉢形城と扇谷上杉氏の武蔵国における拠点河越城が対峙する中間にあたる境目の場所だったからだと考えられています。まさに本県は、関東を揺るがした戦いの中心地だったのです。 6月には菅谷館(嵐山町)のほど近くで、死者700人とも伝わる大規模合戦「須賀谷原合戦」が起き、続く11月には高見原(小川町)で「高見原合戦」が繰り広げられました。この戦いは扇谷上杉氏の勝利に終わり、山内上杉軍は鉢形城に敗走しました。