『逃げ上手の若君』逃若党が立ち向かう悪党・瘴奸は実在した! 史実に残る実像に迫る
TVアニメ『逃げ上手の若君』8話では、新たに仲間に加わった吹雪を筆頭に、逃若党の仲間たちが悪党・瘴奸らと熾烈なバトルを繰り広げた。悪逆非道な瘴奸だが、実は史実に存在する。今回は歴史の文脈から彼の実像に迫る。 ■モデルとなっている「平野将監入道」とは何者か? 盗みに殺しに人身売買、悪事を働くことにこの上ない喜びをおぼえる外道・瘴奸。『逃げ上手の若君』ではその前身を食いつめて野盗に身を落とした武士として描いた。モデルとなった平野将監(平野将監入道とも)は史料にもその名がみえる実在の人物だが、その実像はどんなものだったのだろうか。 元徳2年(1330)、東大寺領だった摂津国長洲庄(現・兵庫県尼崎付近)に摂津、大和、河内国の悪党が押し入って寺家の政所だった延福寺を占拠、乱暴狼藉に及ぶという事件が起こった。その主犯グループの一員として名指しされたのが平野将監入道である。摂津国住吉郡平野郷(現・大阪府平野区)を拠点としていた人物と想定され、 鎌倉幕府の関東申次を務める西園寺氏の家人でもあった。平野郷は摂津・河内・和泉と3つの国の境界に近い交通の要地であり、平野将監はこの地域一体の流通を掌握していた典型的な「悪党」的存在だったと考えられる。 『太平記』巻6「人見本間討死の事」の中で彼は「平野入道将監」として登場し、河内国赤坂城(現在の大阪府千早赤阪村)の将として幕府の大軍を向こうに回して奮戦したと伝えられる。城を任されたくらいだから現地の悪党を束ねる存在だったのだろう。戦国時代の末期から江戸時代初期にかけてまとめられたとされる『太平記』のガイドブック『太平記評判秘伝理尽鈔』 でも平野将監入道を「智謀と勇」を兼ね備えた人物であると高く評価している。 長期の籠城戦になると見越していた赤坂城の備えは万全で、兵の士気も高かった。その粘り強さに幕府軍には厭戦気分が漂い始めたが、水源もないのに水に困った様子のない赤坂城の様子を不思議に思った一人の武士によりその秘密が明らかになる。赤坂城では背後にある山から城内まで樋を埋め、水を引き込む設備を作っていたのである。幕府軍がこれを塞ぐと、水の手が断たれた赤坂城はこれまでの奮戦が嘘のように瞬く間に窮地に陥った。 喉の渇きに耐えかねた赤坂城の兵たちが自暴自棄になって城門から飛び出そうとするのを引き留め、平野将監入道は「今出て行っても無駄死にするだけだ」と引き留めてこう説得した。「幕府軍が優勢なら忠誠を誓ってこれまでのことは水に流してもらい、味方に利があるならまた帰参して運命を切り開こうではないか」 この平野将監入道の「戦場ではひとまず有利な方に味方する」「降伏して一時の恥をさらしても命さえあればいつか運が向いてくる」という考え方は非常にドライである。新田義貞の侵攻の前に鎌倉幕府が滅亡した際には北条氏に長年仕えた武士たちの多くが運命を共にしたが、それとは異なる中小の武士のしたたかさがここにはある。これもまた当時の武士のリアルだった。 負けを認めた平野将監入道は櫓の上から 「楠木正成が和泉・河内を征服してしまったので仕方なく従い、幕府に手向かいもした。その罪を許してくれるなら降伏するし、許されないなら命が尽きるまで戦うぞ」 と告げた。攻め手の将・阿蘇弾正治時はこの申し出を受け入れて一度は本領安堵(領地の保証書)の御教書まで用意したのだが、投降した城兵たちの身柄を預かった長崎左衛門尉高貞が約束を翻して「緒戦の勝利の祝いとして見せしめにしよう」と平野将監入道以下およそ300名近くを六条河原で打ち首にしてしまったのである。それを知った河内や吉野の反幕府勢力がさらに闘志を燃やしたのはいうまでもない。『太平記評判秘伝理尽鈔』 の作者も「平野を生かしておいて楠木正成が籠る金剛山に送りこみ、内部からの切り崩しに利用すればよかったのに」とその短慮を批判している。 この戦いからおよそ3ヶ月の後、六波羅探題は陥落し、鎌倉幕府も滅亡するのである。もしも平野将監入道がこのとき生き延びていたら、あるいは楠木正成や赤松円心のように歴史を変えた悪党として後世に名を残していたかもしれない。
遠藤明子