廃校小学校の絆が生んだ支援…能登を離れた私にできること【震災6カ月】
漠然と「被災地のために」では続かない
発災後、実家に帰るたびに、そのさみしさにがく然としました。 避難所が閉じてからは炊き出しもなくなり、イベントや支援が途絶え、住人の集まる場所がなくなりました。集落には出歩く人はほとんど見かけず、声も聞こえず、ただ定期的に防災無線が鳴り響くだけです。 集落では、商店、郵便局、鮮魚店がなくなり、どれも再開は厳しいとのことです。特に2軒あった商店は、地域の高齢者が思い思いに集まるコミュニティ維持の機能もありました。 それらがなくなったことで高齢者は壊れた家から出る理由を失い、集落の荒廃した空気感の中で気持ちも沈んでいくだろうと感じました。 何とかして、集落のつながりを再生できないか。 まずは同じ思いを持つ仲間を探してみることにしました。 私の故郷である甲地区には、もともと兜小学校がありました。兜小学校は2008年に廃校になってしまったのですが、小学校の卒業生に声をかけることにしました。 私のようにすでに故郷から離れていたとしても、家族や親戚が住んでいることも多く、そんな彼らであれば協力してくれるのではないかと思いました。 震災後、私はSNSなどで多く情報発信をしてきましたが、長期的な支援のためには、漠然とした「被災地のために」という思いだけは続かないのではないかと思うようにもなりました。 LINEで小学校出身者のグループを作り、最初は炊き出しの協力者を募ったところ、30~50代の12人が集まりました。その後メンバーは口コミで広がり、現在グループLINEは20人を超えています。 私が兜小学校に通っていた当時、各学年1クラスで、同級生は約10人でした。同窓生の数は決して多くないにも関わらず、20人以上集まってくれたことは予想外の盛り上がりでした。 その後、小学校の同窓生らを中心に任意団体「穴水町甲復興団」を設立し、公民館での定期的なカフェなどを開いています。
注目される「派手な活動」でなくても
メンバーのひとり、宇都宮市やベトナムでの居住経験があり、今は地元で農業を営む通称“さっちゃん”は、「地域のために何かをと考えても地震の片付けなどに追われて行動に移す時間が全くなかった」と振り返ります。 さっちゃんはカフェの企画・運営だけでなく、今後の活動についても積極的に参画してくれていますが「地元だけでなく、外からの協力してくれたことで初めて地域のために動き出すことができた」と言ってくれました。 今のメンバー構成は半分が地元、3割が金沢、2割が関東・九州などの県外に住んでいます。 「隣の能登町で高校の同級生がブルーベリー農園をやっているから、そこのクレープをカフェで出せないか」 「居酒屋をやってほしいという要望があるので何かできないか」 私達が実際に顔を合わせるのは、カフェのときの月2回ですが、オンラインで連絡を取り合い新しい企画も次々生まれています。 被災地の支援と言うと、なにか大掛かりな活動をしないといけないと思いがちです。実際に私もそうでした。 でも能登半島の復興は、今後何年も続いていきます。求められているのは、それぞれが無理のない形で、長期的な視点で付き合っていくことだと思います。 私達の活動は、大きな注目を浴びるような「派手な活動」ではないかもしれません。 でもそれでいいと思っています。 これからもメンバーがそれぞれ無理のない範囲で関わり、自然と楽しみながら地域に寄り添い、課題解決を進めていければと思っています。今こういう活動こそがこの地域の復興を着実に進める一歩となると実感しています。
東井孝允