“絵になる”かわら版 農民出身、北辰一刀流女剣士の敵討に江戸っ子大興奮
尋常ならざる悪党を追う
敵討で最も厄介なケースは、一体どのようなものだろうか。それはおそらく、仇敵が権力者とコネクションを持っている場合だろう。 江戸後期に起きたとある敵討は、まさに今述べたような事情を持つものだった。この敵討は、俗に「護持院ヶ原の敵討」と呼ばれる。ここに掲載したのは、それを報じたかわら版である(ただし、記事の情報に間違いが極めて多い)。 この事件は、1838(天保9)年、師走の夜に起きた殺人から始まる。酒を飲んで帰宅する途中だった剣術師範の井上伝兵衛が、何者かに闇討ちされたのである。犯人は、札付きのワル、本庄茂平次と判明する。伝兵衛の敵討に名乗りを上げたのは、伝兵衛の弟である熊倉伝之丞だった。伝之丞は、事件の翌年の2月に主家を辞した。そして、その父の後を追って、伝之丞の息子である伝十郎も叔父の敵討の届を提出し、3月に辞職する。 しかし、事態は最悪の展開を迎えた。茂平次を追跡していた伝之丞が、返り討ちに合って殺されてしまったのである。追うのは、まだ20代半ばの伝十郎のみとなった。経験も少ない若者である、茂平次に敵うはずがない。しかしある日、伝十郎は思いも寄らない人物から、助太刀の申し出を受ける。壮年の浪人は、小松典膳と名乗った。伝兵衛の弟子だった人物であり、師の悲報を聞き及び、江戸にやってきたのだという。 その後の2人は、数年間にわたって必死の捜索を続けたが、残念ながら茂平次の所在はわからなかった。ただしその過程で、茂平次という男の正体が、少しずつ明らかになってくる。彼はある人物に気に入られ、その手下として悪事を働いていたのだ。その人物とは、誰あろう鳥居耀蔵(1815~1874年)である。 鳥居は、老中・水野忠邦(1794~1851年)の右腕として活躍し、1841(天保12)年には江戸町奉行に抜擢された。市中を冷酷に取り締まったために、「妖怪(耀甲斐)」と呼ばれ、町人たちから嫌われ、怖れられていた人物である。もし、鳥居が茂平次を匿っているのだとしたら、2人の力では到底手出しができない。