志士としての武四郎は? 松陰の手紙など資料28点で紹介 三重・松阪
記念館で企画展、5月26日まで
三重県松阪市小野江町の松浦武四郎記念館(山本命館長)は企画展「武四郎と尊王攘夷(そんのうじょうい)」を開いている。北海道の名付け親として知られる松浦武四郎(1818~88年)だが、幕末に生きたさまざまな人物と交流し、自らも志士として活動した姿を資料28点から紹介している。5月26日まで。
剣術使えずとも…激動の時代、人々関わり知る
幕末の日本は開国と通商を求めて諸外国が相次いで来航する中、外国から日本を守るため、幕府を中心とする政治から天皇を中心とする政治に戻し、一致団結して外国を追い払う尊王攘夷思想が生まれる。ロシア南下の危機が募る当時、武四郎は6度の蝦夷(えぞ)地調査を行い、全国の志士に情報を発信し幕臣ともネットワークを築いた。 武四郎作「樺太(からふと)地図南部」は縦2.4メートル、横1.6メートル。武四郎自筆の江戸時代最大の樺太地図で、海岸線にびっしりと地名と、細い線で地形や川の流れなど土地の様子を詳細に伝えている。武四郎は他の北海道の地図と同じように幕府に出版を願い出るが、ロシアとの国境問題から出版は許されなかった。樺太南部にはアイヌ民族が暮らしており、武四郎はこの場所を日本のものと主張するため、吉田松陰(1830~59年)と伊勢神宮や熱田神宮の御分社を設けることも考えていた。 1853(嘉永6)年9月5日付「吉田松陰書簡」は、松陰が大阪の砲術家・坂本鼎斎(ていさい)に、武四郎を紹介するための手紙。武四郎はこれを持って大阪へ行くが、鼎斎に会えず手紙だけが残った。松陰はこの中で「幕府の腰抜け武士がしきりに和義を唱え候こと…」と記す。 これは同年6月にアメリカ提督・ペリーが浦賀へ来航し、7月にはロシア使節のプチャーチンが長崎に来航したことを受け、動揺し開国へと傾く幕府を痛烈に批判したものだった。武四郎と松陰は、迫り来る諸外国から日本を守るため考えを語り合っている。 尊皇攘夷運動に身を置いていた儒学者の池内大学(1814~63年)の書簡は、関白の鷹司政通に宛てた53年のもの。徳川家定の13代将軍就任に際し、京都から勅使が江戸に赴くのに合わせ、幕府が国家の体制(国体)を辱めることがないよう、朝廷から幕府に「御沙汰書(ごさたしょ)」を出すことを求める内容。当時、松陰ら江戸の志士に頼まれて武四郎は、この書などを携えて京都へ行き、朝廷側との交渉に当たっている。 山本館長は「武四郎は剣術を使える人ではないし、戦って相手をやっつけられる人ではなかったが、志士を盛り上げるために自分ができることをやっていた。激動の時代をいろいろな人々と関わりながら生きたことを知ってもらえれば」と話している。 開館は午前9時~午後4時半。月曜休館だが4月29、5月6日は開館。入館は一般360円、6歳以上18歳以下は230円。4月20、21日は県民の日で無料開館する。