「心が折れた」デーブが「アメリカに帰りたい」といった時期も…妻・京子スペクターが明かす会社設立当時の苦労と目標だった『徹子の部屋』出演
デーブ・スペクターさんと結婚後、日本を拠点に夫のアシスタント業務に徹していた京子スペクターさん。来日後、自分たちの会社を立ち上げました。どのような思いで起業したのか、当時の思いと経緯について伺いました。(全4回中の3回) 【画像】「30年経っても変わらない」京子さんとデーブさん夫婦の結婚式から最近のツーショットまでふたりの人生を写真で振り返る「憧れます」(全17枚)
■芸能プロダクションに所属するも「自分たちでやろう」と決意 ── 1988年には、株式会社スペクター・コミュニケーションズを設立し、経営者として歩み始めました。会社を設立した経緯について教えてください。
京子さん:夫の「仕事のしやすさ」から、会社を立ち上げることに決めました。日本に拠点を移して以降、デーブは日本とアメリカの仕事を2本軸で行っていましたが、タモリさんがMCを務める『笑っていいとも!』への出演をきっかけに、他のテレビ出演の仕事が急増。 「コメンテーター」としての依頼が入るようになり、1985年頃から、芸能プロダクションに所属していました。その頃も、夫はABCテレビの仕事を継続していたので、私がサポート役として手伝っていましたが、次第に「自分たちでマネジメントしたほうが、お金の流れもきちんと見えるし、アメリカの仕事もしやすいのでは」という考えになり、1988年にスペクター・コミュニケーションズを立ち上げました。
── 会社設立時、どのような思いでしたか? 京子さん:「夫の望むことを実現させたい」という思いでした。とにかく勉強熱心な人で、出演する番組に関しては、MCやゲストのことを念入りに調べ、「わからない」をゼロにした状態で臨んでいました。 たとえば、『笑っていいとも』に出演した時は、タモリさんの生い立ちから過去の出演番組などを、まんべんなく調べていました。日本語の勉強も継続しており、睡眠時間を削ってでも努力を惜しみません。そんな夫を「支えたい、手伝いたい」という思いで立ち上げたのが今の会社です。
── デーブさんのたゆまぬ努力と京子さんの支えが、現在の地位を築いているのですね。 京子さん:以前、夫に「そこまで調べなくてもいいのでは?」と言ったことがありました。緻密に下調べをしても、MCさんに振られなかったら無駄になってしまうこともあるからです。 しかし彼は、「いつかどこかで使える知識になるはずだから」と頑なでした。今も昔も「視聴者に情報をきちんと提供する」という姿勢は変わらず貫いていて、その誠実さこそが、テレビ業界で今も生き残れている理由なのかもしれません。
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