アリ・アスター監督が映画づくりで“常に意識していること”は?
『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』の異才アリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』がいよいよ16日(金)から公開になる。アスター監督の作品はどれも不安や恐怖、言葉にならない奇妙な感覚を鮮烈なビジュアルで描いているが、どの作品も繰り返し観賞する熱狂的なファンが多く出現する。 【画像】『ボーはおそれている』の写真 なぜ、アリ・アスター作品はこんなにも観客を魅了するのか? 彼が作品を手がける上で“必ず意識していること”は何なのか? 来日時に話を聞いた。 前作『ミッドサマー』が大成功をおさめ、アスター監督が次回作に何を手がけるのか、世界中の映画ファンが注目していたが、彼の長編第3作目は“監督デビュー前”から温めてきたプロジェクト『ボーはおそれている』だ。 名優ホアキン・フェニックス演じる主人公のボーは、父の顔を知らず、母の愛情に包まれて育った。その結果、大人になっても“ある段階”から成長が止まったままで、うがい薬をうっかり飲んでしまっただけで「自分はガンになるのではないか?」とオロオロするほどの心配性になってしまった。そんなある日、彼は母が怪死したことを知る。ボーは慌てて帰省を決めるが、外の世界は不安なことだらけ。その旅は、彼の人生そのものを揺るがすほどの壮大な帰還の旅=オデッセイになる。 アスター監督は本当に謎めいている。対面すると穏やかでナイスガイ。映画好きで、インタビューが終わっても筆者が映画好きだと知ると「最近、なにか良いブルーレイ買った?」と笑顔で話しかけてくれる気さくな人だ。その一方で、なぜ新作に『ボーはおそれている』を選んだのかと問われると、爽やかな笑顔のまま 「僕自身はあまり居心地の良い想いをしないで生きてきたので、みんなにも僕みたいに居心地の悪い想いをしてもらいたいんですよ。でないとフェアじゃないですよね?」 と不気味なジョークを飛ばしてくる。アリ、本当にナイスガイである。 「本作の主人公ボーは優柔不断で、負け犬で、自分が何者なのかよくわかっていない男です。その上、人生の迷子になっています。この映画では観客のみなさんにボーという人物の人生を一緒に生きている感覚を味わってもらいたい、彼の半生を追体験してもらいたいと思っています。人生は疲れるものだから、観客もこの映画を観て疲れてもらいたいですね(笑)。と同時に、この映画を観て豊かな気持ちになったり、笑ったり、感動してもらいたいとも思っています」 ボーの帰省の旅はとにかく予想外の連続だ。母の訃報を受けて、家を出るまでに想像を絶するトラブルが発生し、わけがわからないうちに見たこともない場所に放り込まれ、恐ろしさに囚われながら脱走すれば深い森に迷い込んでいる。これは現実なのか? それとも? 少し迷う観客もいるかもしれないが、アスター監督の意図は明快だ。 「この映画では脚本を書く段階からすべて“ボーの主観”だけで描こうと決めていました。執筆中には主観と客観を行き来したくなる瞬間もありましたが、この映画ではボーの内面が反映された世界だけを観客に見てもらいたいと思ったのです。そう考えると、この映画はさまざまなことが起こりますが、極めてシンプルな話なんです。つまり、この映画に登場する世界と、ボーの内面には不一致がまったくないのです」 ボーが不安になると、彼の見ている世界も歪みだす。彼がここではない場所、あったかもしれない未来に想いをはせると、スクリーンでは現実ではなさそうな空間が広がる。ボーの心の状態が、そのままスクリーンに映し出される。そして常に“ボーはおそれている”。こんな役を演じることのできる俳優はそうそういるものではない。 「ホアキンは本当に素晴らしい俳優なんです。彼がどんな俳優なのかわかる例を挙げさせてください。彼が母親役のパティ・ルポーンと共演するシーンで、ホアキンの肩越しにパティを捉えるカットがありました。何テイクか撮影して、最高だと思えるものが撮れたぞ、と思ったら、フレームに写っていたホアキンの肩がスッとフレームから消えたんです。僕は少し離れた場所でモニターを見ていたのですが、何が起きたのか俳優たちのところに駆け寄ってみると、ホアキンは……気を失って倒れていました。 彼は自分にカメラが向けられているわけではない、肩しか写っていないカットであっても、共演者のために全身全霊で演技を続けて、エネルギーを使い切って気を失ってしまったんです。ボーという役は本当に大変で、肉体的にも負担が大きく、まるで地獄を生きるような撮影だったと思います。それでもホアキンは共演者のために気を失うまで尽くすのです。彼はそういう俳優です」